ふつうのおたくの日記

漫画と『ブルーアーカイブ』のことを中心に、ゆるゆると書きます。

『意識と〈我々〉』、『カントの自己触発論』

 強い博論本を2冊読む。

 いずれも従来のカントとヘーゲルについての理解を刷新する快著だが、両者がいずれも「信仰と知」におけるヘーゲルのカント解釈を重視していること、そして構想力の概念を重視していること……これらのことを、わたしはどう理解すればよいだろうか?

 個人的には、構想力に全てを預けてしまうことは何だか奇妙に思える。いやもちろん、単に構想力に全てを放り投げているわけではないことはよくよく承知しているのだが、そこで同時に働いている理性の働き、ないし、行為という問題をどう理解するか。これがわたし個人の関心である。

 

 もうちょっと書くか。飯泉さんのピピン批判だと、自己意識章において意識の対象化=意識による反省は起こらない。理由を帰属させるような行為者性の話は自己意識章のなかにはない。これはピピンの議論にとってクリティカル。ピピンはやはり自己意識章において社会契約がいったんは成立すると思っているから。

 ピピンの議論って、やっぱりヘーゲルそのものというよりむしろカントの延長線上に置いた方が良い気がする。ピピンはカントの構想力論を規則に従う行為の問題として読み、承認論はそのための理由を与えるものと理解している。

 ただそのうえで、これはずるいかもしれないけれど、不完全な関係さえありえないという飯泉さんの解釈と、不完全な関係は一応あるよねというピピンの解釈は実質的にどれほど違うのか。いやでもたぶん、それが世界の生成の話になるんだよね。ピピンには無い話。こっちで戦うとどうなるやろ。

『自然権と歴史』、『疑惑の影』、エヴァ序

 レオ・シュトラウスの『自然権と歴史』ぼちぼち。いい本ですね。古典啓蒙主義から実存主義まで、歴史主義という事件を踏まえて一気に描きだす力技。かつ、近代の自然理解が間違っているのが諸悪の根源だとして、古代に遡行する。かなりデカい哲学体系で、しかも魅力的。ピピン先生の反論はポジショントークかなと、正直思ってしまわんでもないほど。手強い。でもいい本ってことだ。

 

 ピピン関連でもうひとつ。映画を見た。ヒッチコックの『疑惑の影』。

 

 んー、ヒッチコックの偉さって、わたしやっぱりあまりよく分からないよなあと。いや、見やすいし分かりやすいし、いいんだけど、そんなに何度も見返すような作品か?というのは正直思う。サスペンスであることと関係しているのかな。あんまり人間像に魅力を感じない。スタンバーグの『モロッコ』とか『スペイン狂想曲』とかの方が上等じゃないかしら。個人的に映画で感動したっていうと、やっぱり『東京家族』になってしまう。

 

 それから、たまたまふと思い立って『エヴァンゲリヲン新劇場版 序』をみた。

初めてみたのは中学生だったかな。あの頃に比べると感動はやや薄れたというか、「テンポ早すぎて草」とか、「組織穴だらけで草」とか、そういうことを思うのだけれど、まあでも、シンジ君が魅力的なのは間違いない。

 

 ブルアカとTwitterをやめたので、想像力に空きがある。そこに映画を詰めるのが昨日と今日にやったこと。正直つらいんだ。女の子がぼくを救ってくれないのに、ずっと画面を見ていることが?だから普通に映画とか見てる。この話はまた別に機会にね。

「最寄りまでこのまま……」|ねっこについて

 好きなブルアカ二次創作シリーズ。前回のはこれ。

kyakunon.hatenablog.com

 

 「ねっこ」さんというイラストレーターがいる。別名義でYoutuberなどをされていて、その方面でも非常に有名な方だが、ここでは触れない。問題はねっこ氏が描いているブルアカの二次創作である。

 ねっこ氏のpixivに発表されているR18ジャンルの投稿を覗くと、ある一つの傾向がみてとれる。それは、<精液をヒロインに飲ませること>、すなわち精飲へのこだわりである。

www.pixiv.net

 

 いくつか例を挙げる。(なお、すべてR18のためはてなブログでは見れない…ぜひぜひ、ご本人のアカウントを訪れること。)

 例えば、マグカップ一杯に入った精液を飲むユウカ。

www.pixiv.net

 

 素朴な疑問として、どうやってマグカップ1杯分の精液を先生が用意したのかが気になる。1回の射精量が多いのか、複数回すぐに射精できるのか、あるいは一時的に保管しておいて、少しずつ溜めておいたのか。

 ただ、イラストをみるとまだ温かい(「ほかぁ…」という擬音がついている)ことから、おそらく短時間に大量に射精したのだと考えられる。そうなると、体力というよりむしろ、精液の分泌量の方が異常だということになるような気がするが、どうか。(あるいは、さすがにお湯で嵩増したのだろうか。それもありそう。)

 

 次に、精液を咀嚼するミヤコ。

www.pixiv.net

www.pixiv.net

 ねっこ氏の解釈だと、ミヤコは先生の精液を自身の体内に取り込むことに異常な執着をみせているようだ。口淫を通じて射精を促し、その精液を口内で受け止める。その精液を咀嚼し、唾液が精液の味を薄めてしまうまで口の中に入れたままにしておく。

 何が彼女をそこまで精液に駆り立てるのかはよく分からないが、RABBIT小隊が自分たちのキャンプにシャワー室を持っておらず、風呂に入るためにはいちいちドラム缶で五右衛門風呂を作らないといけないことを考えると、なかなかミヤコの癖は壮絶である。RABBIT小隊のキャンプは、べったりと張り付いた精液の匂いで包まれることになってしまいそうだ。

 

 次。タピオカに精液を混ぜて飲むジュンコ。

www.pixiv.net

 

 これも精液を「美味しい」と言って口に入れる例だが、ミヤコとは異なり、食への関心からおこなっているようである。タピオカと精液という組み合わせは試したことがないのだが、本当に美味しいのだろうか?あるいは、美味の快楽に性的快楽が入り込んでいるのだが、ジュンコ本人はそのことに気が付いておらず、「なんでかよく分からないけれど、美味しい!」と思っていて、それを精液の食感のためだと誤解している、ということかもしれない。

 

 まだまだ幾らでもあるが、最後に、マグカップに入った精液を飲むカズサ。

www.pixiv.net

 「襲われちゃうよ、本当に」で有名なカズサだが、精液を進んで自分に飲ませようとする先生には、流石に呆れているようである。そういえばカズサは猫舌で、出来立てのフォンダンショコラを先生に「処理」させていたりした。精液がフォンダンショコラほど温かい(というか、熱い)ことは流石に有り得ないと思うが、カズサは温かいものが好きではなさそうだ。そんなカズサに温かいものを無理やり飲ませる(食べさせる)というのが、既に業の深さを感じる。いずれにせよ<卑しい>カズサをも寄せ付けない異常性欲の権化。それが先生なのだ。

 

 ともかくもねっこ氏の描くキヴォトス人は、先生の精液を飲み続ける。ときに嫌そうに、ときに嬉しそうに。けれどいずれにせよ、飲むときには画面にハートが飛び交っており、生徒は嬉しそうである。端的に奇妙である。なぜなのか?

 ひとまず、こう簡単に言うことはできるだろう。要するに男の暴力的なファンタジーである。普通に考えて、精飲が女性にとってそれ自体快楽であることはありえない。そもそも精液はおいしくないし、射精を促すために口を動かしていたら、顎が疲れることはあっても快楽を感じることは無い。口淫はあくまで性器的セックスの一部(前戯)か、あるいは、男性だけが快楽を得られる一方的な性行為としてしかありえない。精液を飲むだけで性的興奮を得る女性というのは、男性にとって都合のいいファンタジーに過ぎない。

 わたしとしては、この手の話に、ひとまず異論はない。まあ普通に考えて、精液を飲むという行為が得意なひとは多くないだろうし、ましてやそのことに快楽を感じるひとが先生の周りにたくさんいて、しかも全員先生のことが好きということは、どうにもありそうにない。

 けれど、「男」にとって都合のいいファンタジーは数多くある。「これはファンタジーだ」と言うだけでは、ではなぜこのファンタジーが他のファンタジーを退けて欲望の対象となり得るのか、ということは分からない。

 とはいえもちろん、わたしはねっこ氏のパーソナリティを存じないし、率直に申し上げると関心も無い(クリエイターへのリスペクトとしてご理解いただきたい)。ねっこ氏がどのような経緯で精飲に拘るようになったのかを、氏の経歴に照らして検討するつもりは無いし、そんなことはできない。

 わたしが関心を持つのは、作り出されたファンタジーの強度である。ファンタジーの「強度」とは、他のファンタジーを侵食し、破壊する、その程度のことだ。二次創作が一次創作を飛び越える程度と言ってもよいかもしれない。わたしは、そのジャンプの高さに注目したいと思う。

 そしてねっこ氏の作品の跳躍の高さを測る際にヒントとなりそうなのが、わたしが個人的にねっこ氏の最高傑作だと思っている作品、すなわち「ブルアカまとめ24(コユキ、ヒフミ他)」に収録されているヒフミのイラストである。

 

www.pixiv.net

 

 このヒフミを描いた作品は、全部で3枚のイラストからなっている。順に見ていこう。

 1枚目、最初からクライマックスである。ヒフミが電車のなかで口淫をおこない、先生が口内に射精する。始まりも過程も何もなく、いきなり射精の場面から始まる。そしてもちろんヒフミは、出された精液をごくごくと飲み込む。

 しかし2枚目、先生がヒフミの頭を抑えて、ヒフミの口を男性器から離さないようにする。キヴォトス人であるヒフミが、なぜ先生の頭を払いのけられないのか?という疑問は、ここでは措こう。いずれにせよヒフミは頭を抑えられ、精液を飲んだ姿勢と同じ姿勢を維持している。

 そして最後の3枚目、先生がヒフミの頭を掴んだまま、ヒフミは「……最寄りまで……このまま……」と言う。なんと、射精をしたあとの男性器を口で咥えたまま、最寄り駅までいよう、と言うのだ。幸せに包まれた2人を描いて、この作品は終わる。

 

 この作品はユニークだ。例えば、上で述べたようにミヤコなど、精液を口の中で溜めこんでおく生徒を描いた作品は、他にもある。しかしミヤコでさえ、精液を飲んだあとには、男性器から口を離している。ペニスを咥えていても、精液は出ないからだ。したがって、ヒフミが男性器を咥えている理由は、精液を飲むためではない。

 では、ヒフミが男性器そのものを咥えこんだまま、しばらく一緒にいるというこのシチュエーションは、いったい、どういうことを意味しているのだろうか?

 普通に考えれば、精液を放出したあとの男性器を咥え続けても(お互いに)仕方が無いわけだから、素朴に考えると、理不尽である。じっさい、わたしが確認した限り、ねっこ氏の作品の中で、先生が生徒に口淫を強いる作品はあっても、射精したあとにも継続的に咥え続けているように求めるシチュエーションを描いた作品は、これ以外にない。これは一体何なのか?

 例外的な作品を検討するための比較対象として、ここで「繋がったまま眠る」というシチュエーションを考えたい。すなわち、ベッドの上で男性器を女性器に挿入する性行為をおこなったあとで、男性器を抜かず挿入したまま、男女が眠りに就く、というシチュエーションである。このシチュエーションは、比較的よく知られているだろう。

 そしてわれわれの関心の対象となっているヒフミのイラストは、一見すると、このシチュエーションによく似ている。先生とヒフミが射精を終えたあとにすぐ離れてしまうのではなく、愛を確かめるように、あるいは惜しむように、繋がったままでいる点で、それは「繋がったまま寝る」の一変奏に過ぎないようにみえる。

 ただしこの作品は、一般的な「繋がったまま」のシチュエーションを、単に流用しているわけではない。

 とりわけ「電車」という舞台設定が巧みだ。一般的な「繋がったまま」のシチュエーションにおいて描かれているそれとは異なり、ヒフミは口で咥えたまま眠るわけにはいかない(そんなことをすれば、性器は口から零れてしまうか、あるいは歯に噛まれてしまうだろう)。ヒフミも先生も、ずっと起きたままである必要がある。

 しかし想像して見てほしいのだが、お互いの意識がはっきりした状態で一方が他方の性器を咥えたままぼーっと直立しているというのは、何だか間抜けだ(このシチュエーションがリビングの一室に移動されたらどうなるか、考えてみてほしい。気まずすぎて、いたたまれない!)。

 したがって、先生が性器を咥えさせた状態で立ったままいても、不自然だと思われない理由が必要となる。

 そこで電車だ。電車で目的地に向かうまで立ったままであることは、別に奇妙ではない。電車の中で立ちっぱなしでいることはごく自然であり、画になるとさえ言える。この点で電車という装置は、この奇妙な結合の時間を自然なものとして見せる機能を果たしている。

 更に電車という装置は、それが終わりを目指すものであるという点でも重要な意味を持つ。

 まず、比較対象である「繋がったまま」という状況が、一時の夢として、余韻としてのみ楽しまれることを確認しよう。ベッドが睡眠という一時のためだけに用意されているものであることからわかるように、ふつう、男性器と女性器は、離れた状態としてある。それが結合し完成するという状態は神話であり、あるいはファンタジーであって、一時の夢としてのみ味わわれる。

 口とペニスの繋がりも同じだ。素朴に考えて、口とペニスは日常的には離れており、繋がりそうにない。両者の結合はあくまで非日常的な事件であり、スキャンダルだ。あるいは、もっと単純に言えばこうである。顎が疲れる。あまりに長く口淫が続けられてしまうと、それはシチュエーションとしての説得力をやはり失う。これを「最寄り」までの電車という装置は回避することができる。

 ヒフミと先生の愛の確認が「最寄り」までの僅かな時間においてのみ成立することは、この点において認められなければならない。すなわち、それは立ち尽くす時間を正当化するのだが、その時間を緊張感を持った、有限なものとして正当化するのだ。

 こうしてわれわれは、ねっこ氏の作品において、電車が、口淫が口淫として愛を確かめられるための場所として、位置づけられていることに気づく。離さないこと、電車の中にいること、それが最寄り駅という目的地をもつこと。これらはすべて繋がっている。

 

 そしてこのことは、一般的な性規範にとってのみならず、『ブルーアーカイブ』にとってもスキャンダラスな帰結を導く。

 例えば、連邦生徒会長が先生と会話し、そこからブルアカの物語のいっさいが始まったのは、電車の中であった。象徴として読めば、電車という場所は、それがさまざまなところに走っていく中継地となるようなところであって、未だ現実化していない、可能性を意味している。思い出して欲しい。「あまねく奇跡の始発点」というアイデアは、電車のなかで語られていた。したがって電車という場所がこのような意味を持つことは、原作ゲームだけでなく、アニメ版においても踏襲されている、ブルアカの基本的な世界観と言ってよい。

 そしてねっこ氏の二次創作は、そのようなブルアカの基礎にかかわる場所である電車を、フェラチオをおこなうカップルの愛の巣として描き換える。電車は、ヒフミが男性器を口で咥え続けることができるという可能性の具現として変形されてしまう。

 この想像力が秘めた説得力を、わたしは楽しみたい。電車はどこにでも行ける。では、先生がヒフミに口淫させて離さない世界はあるだろうか?ねっこ氏の作品は「ある」と力強く述べる。では、この愛を乗せた電車は、どこに向かうのだろうか?その結末は、恐らく誰も知らない。わたしも知らない。ただ乗せられている電車の速度を、今はただ楽しんでいる。

「SEX」を更新すること|外湯について

youtu.be

 

 この記事を書いてからというもの、ようやく自分の肚が決まってきて、ブルアカの二次創作をぼちぼち漁ってきた。

 そのなかでやや遅ればせながら発見したのが、この外湯氏の音MADである。一度みて、その素晴らしさに圧倒された。

 まず特筆すべきは、ケイティ・ペリーの"California Gurls"の調教の巧みさだろう。

(言うまでもなく、「調教」というのは音声調整のことである。主にボーカロイドで使われる用語。)

 「若い頃/漠然と/私は/死にたかった」から始まる有名なエッセイ漫画のパロディであるわけだが、本来英語で話しているケイティ・ペリーのことばを見事に日本語のミームに落とし込んでいる。また、英語から日本語への巧みな変換を行いつつも、「私」のところだけ「I」のまま残すなど、遊び心にも満ちている。

 

 ちなみに投稿者の本気の調教がみられるこちらの動画も素晴らしい。

 基本的なストーリーラインとしては上記エッセイ漫画のパロディをなぞっており、16歳→62歳→ケイティ・ペリー歳→922歳とムツキが年を重ねていくにしたがって、「SEX」の重要さに気が付くようになる、という流れになっている。

 もう少し言葉を補うと、16歳のときのムツキはCalifornia Gurlsに合わせて踊る普通のティーンエイジャーであるのだが、62歳のころに整体に通うことでカブトムシ(クフキング)に変わり、ムシキングバトルに明け暮れるようになる。

 しかしケイティ・ペリー歳のときに学者に転身する。探偵ガリレオの衣装に袖を通し、思考に沈潜した結果「実にSEX」という結論に辿り着く。この「SEX」というのは、ケイティ・ペリーの"California Gurls"の歌詞の一節であるが、「SEX...」という静かな歌い出しと相まって、奇妙なおかしみを示している。外湯氏はこの「SEX...」を誇張し、ガリレオの推理の末の結論も同様に「SEX...」としている。

youtu.be

 

 そこからフィーバータイムに入るが、しばらく経ってムツキが922歳になると、『JIN 仁』のテーマソングに合わせてムツキが「SEX」と連呼する。このときには既に「SEX…」のささやき感は失われて、ムツキは音割れしつつひたすらに「SEX」とだけ繰り返すようになっている。

 この音MADが素晴らしい作品であることは言を俟たない。それはCalifornia Gurlsとエッセイ漫画を乗りこなし、922歳の一面の「SEX」に帰着させる。軽薄にネタを消費しながら、同時に性欲への異常なこだわりは捨てない。922歳の結論が「SEX」というのは、いったい、最高では無いか。いくら長く生きようと、最後はSEXなのである。

 しかしその強迫的な固着は、翻って、SEXを嘲笑してもいるだろう。原曲の、いかにもかの国らしい明るくポップなセックスは割れた音に閉じ込められ、俳人たる老人の手慰みとなり、新年のあいさつに採用されてしまう。ここにはニコニコ動画淫夢動画の影響を受けつつも、むしろ太陽の下で繰り広げられる異性愛に刃を向ける、クリティカルな契機が存在する。

 しかしそうだとして、ムツキはこの動画にどのような関係があるだろうか。California Gurlsに紐づけられたキャラクターであるという以上の意味は?

 もちろんある。「くふふ」という彼女の笑い声が、922という数字を引き出したのだから。922という数字があるからこそエッセイ漫画との接点が年齢という点で見出され、更にはガリレオの数式にも移ることができるのである。そしてこの数字に意味が無いこともまた、「くふふ」のなかに書き込まれている。これはあくまでいたずら、ジョークの類に過ぎない。数字はムツキを移動させるが、しかしそれはあくまで空虚な乗り物に過ぎない。だから軽やかなのだ。これがケイティ・ペリーの貌であれば、事態はそう簡単に進まなかっただろう。ムツキだからこそ可能になったのである。

 「カリフォールニアー」にあるように、ムツキが関心を持つ「SEX」はアコやハスミのうちにあるのであって、ケイティ・ペリーは「見たことない」。ブルアカの「SEX」でリア充陽キャの「SEX」を塗りつぶすこと。しかし、ムツキとともに、あくまで軽やかに……

『精神分析の四基本概念』注釈①

 以下、ジャック・ラカンセミネール第11巻『精神分析の四基本概念』の注釈を連載する。日本語訳は岩波文庫、フランス語原文はSeuil社のペーパーバック版を用いる。

 

amzn.asia

 

www.seuil.com

 

 なんで急にこんなことを?という説明は、まあ、おいおい。ひとまず粛々と読んでいくことにする。

 

Ⅰ 破門

 

 みなさん

 

 私は、高等研究実習院の第六部門によって一連の講義をする役目を与えられましたので、これからみなさんに精神分析の基礎についてお話ししようと思います。

 

 

Ⅰ L'EXCOMMUNICATION

 

 Mesdames, Messieurs,

 

 Dans la série de conférences dont je suis chargé par la sixième section de l'École preatique des Hautes Études, je vais vous parler des fondements de la psychoanalyse.

 

 「破門」l'excommunicationという表現は穏やかではない。歴史的文脈を抑えておこう。アメリカを拠点として活動していた国際精神分析協会(International Psychoanalytical Association, IPA)に対して揺れるフランスのパリ精神分析協会(Société Psychanalytique de Paris, SPP)は、1953年にSPPとフランス精神分析協会(Société Française de Psychanalyse, SFP)に分離する。ラカンはダニエル・ラガーシュらがぞくするSFPに合流し、IPAに対する抵抗をおこなうものの、SFPの分析家たちはIPAへの正当性にも惹かれていた。

 IPAはSFPの加盟申請に対して、ジャック・ラカンを訓練分析家のリストから外すように要求する。SFPは1963年11月19日にこの指令を可決。ラカンはSFPからもIPAからも追いやられることになる。ラカンは以上の訓練分析家の資格剝奪を「破門」という。

 ここから見て分かるように、事態が複雑なのは、ラカンの怒りがIPAのみならず、IPAの要求を呑んだSFPにもあるということである。ラカンは次のように自嘲する。

この喜劇的な次元は、さきほど私が破門と呼んだ表明の水準で生じるものの領域に属してはいません。むしろ、この喜劇的次元はここ二年間のわたしの立場に由来しています。つまり、同僚とか弟子とかいう位置にあった人たちによって私がまさしく「取り引きの材料にされた」という立場です。

Celle-ci n'appartient pas au registre de ce qui se passe au niveau de la formation que j'ai appelée excommunication. Elle tient plutôt à la position qui fut la mienne pendant deux ans, de savoir que j'étais -- et très exactement par ceux qui étaient à mon endroit dans la position de collègues, voire d'élèves -- que j'étais ce qu'on appelle négocié.

(10/17)

ラカンが「喜劇的」(comique)と呼ぶものは、除名そのものにあるわけではない。むしろそれを引き起こした弟子たちの画策ないし陰謀--もっとも、これはラカンの視点からそうみえる、というだけだが--のうちにある。IPAだけでなく、自分をIPAに売ったSFPの弟子(ラプランシュ)や同僚(ラガーシュ)への憤りということを踏まえておかないと、若干ややこしい。

 

 本文に戻る。「破門」をいずれにせよ喰らったラカンは、それまでセミネールをおこなっていたサンタンヌ病院から高等師範学校(École normale supérieure, ENS)に場所を移す。「高等研究実習院(l'École preatique des Hautes Études, EPHE)の第六部門によって一連の講義をする役目を与えられました」という表現には一瞬引っ掛かりを覚えるが、先を進めていくと、EPHEの要請を受けてENSでセミネールをするようになったと語られていることが分かる。

 さて、では、「精神分析の基礎」[l]es fondements de la psychoanalyseとは何だろうか。そもそも「基礎」とは何か。そして「精神分析」とは何か。これが、我われがこのセミネールを読んでいく際の根本問題となるだろう。

イブキ、すき

youtu.be

 

 メール何通か溜めてるの気づいてます、すみません、これだけ書かせて。

 今日一日ずっと寝ていて、ようやく頭が回ってきたんですよ。

 

 うすうす気づいていたけれど、最近の<二次元の><虚構の>(超重要!)趣味が、かなり幼い寄りになってきた。三森マツリさん、空﨑ヒナさん、と好きになってきたあたりで、む?とは思っていたのだが、丹花イブキさんに心惹かれている自分に気づいたことで、いよいよ自覚した。この手の子、わたし好きになっちまう。

 

 けれど、だからこそなのかもしれないが、わたしはしぐれういさんの「粛聖!! ロリ神レクイエム☆」は好きじゃないし、これがバズって「ロリ」が安易なネタとして使いまわされていることに若干かなりいらいらしている。

youtu.be

 

 なんだろう、わたしにとってセクシュアリティの問題は、高度に人生にかかわる問題である。それはさまざまな意味での<苦痛>に関わりながら、しかしそれにも関わらず求められるものとしての<享楽>に通じているからだ。

 享楽の端正な定義としては、立木康介の以下。

病がもたらす享楽(ラカンにおいて、「享楽」とは本来、苦痛として快の彼岸で生きられる経験を指す)の炎に、実際に息子が身を焼かれていたとき、父親は自分自身の安逸な享楽にかまけていたために、その炎を見逃し、息子を救えなかった--という経緯を想像することはたやすい。いずれにせよ、「お父さんには見えないの?ぼくは火に焼かれているんだよ!」という言葉は、臨終の間際にキリストが発したという「Eli, Eli, lema sabachthani (わが神、わが神、なにゆえ我を見棄て給いしか)」を想起させる。ただし、このように考えるとき、問われるべきなのは息子の享楽ではなく、それにたいして父親の目を閉ざさせている父親自身の享楽のほうである。自らの享楽に囚われている父親の目を覚まさせるのは、いつも子供の呼び声なのだ。父親とは、もしかすると、自らの享楽から自力で目覚めることのできない存在なのかもしれない。【『ラカン』419頁。強調は引用者】

立木の文章は、さして読みやすいものではない。というのは、炎が享楽であると言った瞬間に<安逸な享楽>という表現が出て父の問題に移り、そうしてキリストの問題へと直ちに接続させられるからである。とはいえ、我われの文脈としては、ひとまず以下のことを抑えよう。セクシュアリティは<享楽>に通じる。享楽とは不快である。したがって、ぬるぬる動いて飲みやすい<ロリ>など、言語道断、だんごどうだい、だ。

 むろん、わたしとてマッチョなことを言いたいわけではない。アニメーションのラディカルネスについても、それなりにわかっているつもりだ(e.g. トーマス・ラマール『アニメ・マシーン』)。けれどもやはり、わたしはメディアでも社会でもなく、<精神>の、あるいは、<主体>の話をしたい。あなたが、何を望むかという話をしたいのだ。

 話を戻すと、わたしにとって丹花イブキを好きであるということは様々に困難があることだ。一方で、幼児性愛、性暴力、女性表象、抑圧。他方で、フィクトセクシュアル、マスキュリニティ、サブカルチャー。あるいは、親不孝、気持ち悪さ、安楽。これらすべてのいっさいから離れたいと思いつつ、わたしは離れることができない--それが世界の中に住み込み、世界の中で何かを語るということだから。だからふつう、語ることは拒否される。<精神>の話をしたいなんて言うことは、やめたほうがいい。いろんな意味で。語ることそのものが快楽に転じてしまうおそれがあるから。

 だから語りは、快楽を破るものである必要がある。<正義>でもなければ<趣味>でもなく、もちろん<性的満足>でもない。それは不快を目指す享楽である必要がある。

 しかし不快とはなんだろう。さしあたり言葉としては、それは快の欠如、快でないことである。

 興味深いことに、フロイト本人はむしろ、不快を緊張の持続として定義し、快を反対に、緊張の消失として定義していた。つまり快の方が不快の欠如であった。

 緊張とは何か。一方でそれはリズムである。他方でそれは、歪なリズムである。自分自身が絶えず引き千切られる経験を伴いながら、他方で絶えず復活もする、そのようなリズムである。

 わたしが思い出すのは、『血界戦線』でチェインと飲み比べをしていたチンピラである。彼は「心臓の音がうるさい」と言っていた。ふつう、心臓の音というのは生命のリズムであるはずだ。それがここでは不快なもの、むしろ死を告げ知らせるものとして鳴っている。あるいは、やかましい音楽。これも心地よい音とは対極的に、体を突き刺す音だ。けれども単なるノイズではない……

 わたしが音madを好ましく思う理由もそこにある。音madは、別に心地よくない。奇妙だ。けれどもそれは、単なるノイズではない。例えば。

youtu.be

 

 この動画の中では、イブキの可愛い可愛いお声は、無理矢理に調整されて『オーバーライド』に重ねられている。それは不格好で、歪だ。けれどもそれは、単なるノイズではない。わけのわからないリズムとして展開されている。だから愛おしい。

 わたしが語る言葉は、こうした、音madと比肩しうる言葉でなければならない。それは単なるカオスではない。けれども、美しくもない。音<MAD>という表現は、いったい、何の符号なのだろう?

 

 

ブルアカイベント感想|『にぎにぎと ゆきゆきて』

 最終日の午前中に慌ててエピソードを全部見た。

 修正が入っているらしいが修正前は知らないので、ひとまず修正後についての感想をば。

 

 百鬼夜行ゲヘナといえば、百花繚乱、風紀委員会、美食研、あたりが人気キャラクターでありよく目立っている印象があるが、今回はカスミとシズコが不在で、風紀委員会も最後の方にちょっと出るだけ。ストーリー全体の展開も、シズコ不在の状態でウミカがいかにみんなの力を借りながら修学旅行を回しきるかという話になっていて、ヒナさんが徹底的に一人で頑張っていた周年イベントと、ちょうど対になるようなイベントになっていたと思う。

 ただ、まあ、こんなもんかな、という感じ。別に面白くないことは無かったが、面白すぎて感動した!というほどでもない。これだけキャラクターがいる以上仕方のないことではあるのだが、正直ドタバタ群像劇よりも先に、ひとりひとりの掘り下げがみたいなと思わんでもない。特に今回はメインとなるウミカ、エリカ、キララの三人についてよく知らない状態で始まっている(だって、エリカキララがちゃんと出てきたので、この前の周年イベントですよ)ので、シズコに対するウミカの感情とか、もうちょっと知りたかったなと思わないでもない。(とはいえ、既に描かれてはいたがわたしがみていないだけかもしれない。そもそもなんでウミカはシズコのことを社長と呼んでいるのだろう。。。)

 もうちょっと内在的な話をすると、風紀委員会と陰陽部の打ち合わせをもうちょっと見たかったな。ニヤが全部計算してましたよ的なオチになっていたが、そうなの?なんでそんなことしたの?というのがちょっとよく分からない。修学旅行というA面と、打ち合わせというB面が、もうちょっと絡んでたら嬉しかったな、という気持ち。風紀委員会も急に出てきたし。

 ああ、でも、ゲヘナという団体がどういう団体で、他校からどう見えているのかが分かったのは良かったかも。ヤンキー校ってことでええのかいね。