ふつうのおたくの日記

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『意識と<我々>』7章レジュメ

はじめに

 

 本記事では、飯泉佑介『意識と<我々> 歴史の中で生成するヘーゲル精神現象学』』(2024、知泉書館。以下、特に断らない限り、括弧内の数字はこの本の頁数を指す)の「第七章 世界を欠いた意識の関係 自己意識章について」について、内容要約と検討をおこなう。

 本書はヘーゲル精神現象学』を「「学」としての哲学の歴史的生成と正当化」という観点から包括的に捉え直した研究書であり、論点は多岐に渡る。

 表題にもなっている「<我々>」についての考察や、「信仰と知」における構想力と『精神現象学』の関係、更には終章におけるフーコーの「現在性」概念と『精神現象学』の比較など、興味深い議論は無数に存在するが、本記事では紙幅と著者の関心・能力の都合上、「第七章 世界を欠いた意識の関係 自己意識章について」に限って検討をおこなう。

 

 第七章を貫く飯泉の問題意識をわたしなりに表現すれば、それは<『精神現象学』の「自己意識」章はどのような議論をおこなっているのか>というものである。

 アレクサンドル・コジェーヴによるいわゆる「主人と奴隷」の解釈をはじめとして、自己意識章については様々な研究が積み重ねられてきた。飯泉はそれらの解釈を「社会論的解釈」と「認識論的解釈」に大別したうえで、『精神現象学』を内在的に読解し、両者がいずれもヘーゲルの議論を誤解していると批判する。ヘーゲルの議論の一貫性という観点から、代わりに飯泉が強調するのは、「不幸な意識」における世界の認識という契機である。

 

 なお、第七章では『精神現象学』の「自己意識」章の各部が取り扱われているため、参考までに『精神現象学』の目次の前半部分を下に掲載する。適宜参照してください。

 

精神現象学』もくじ(前半のみ)

 

A 意識

 Ⅰ 感覚的確信、あるいは「このもの」と「思いなし」

 Ⅱ 知覚、あるいは事物と錯覚

 Ⅲ 力と悟性、現象と超感覚的世界

 

B 自己意識

 Ⅳ 自己自身であるという確信の真なるありかた

  A 自己意識の自立性と非自立性 支配と隷属

  B 自己意識の自由 ストア主義、懐疑主義、ならびに不幸な意識

 

C(AA)理性

 Ⅴ 理性の確信と真理

 

(以下略)



第1節 自己意識の課題

 

 繰り返すように、「自己意識」章には様々な解釈が加えられてきた。飯泉がなかでも注目している解釈は、自己意識章A「自己意識の自立性と非自立性」の箇所を、「人間の社会形成、あるいは社会的関係の形成」(255)を論じるものとみなす解釈である。

 飯泉によれば、ヘーゲルはいわゆる社会契約論者ではないが、「世界」の生成を論じており、この点において一種の社会形成論として読むことができる。

 ただし飯泉の解釈の力点は、既存の解釈者のそれとはやや異なっている。第七章の課題は、こうしたヘーゲルなりの「世界」の生成の叙述=社会形成論として「自己意識」章を解釈することである。

 

 その際に飯泉は「意識と対象、および両者の関係」(256)の分析を行う。飯泉の分析の方法を理解するために、飯泉による「自己意識」章全体の理解(特に第五章)を確認しておく。飯泉によれば、「自己意識」章における意識の運動は、「一面では対象との対立を崩そうとせず、他方では対象との統一を目指すという二重性」(185)として叙述されている。そこで意識は対象との区別と統一の狭間にあって両者を統一的に把握することが無く、「自己矛盾的で自己反省的な運動構造」(185)の中にあって、それを対象とすることができない。飯泉が分析しようとする「意識と対象、および両者の関係」の分析は、こうした運動の過程を『精神現象学』の叙述に従って捉えようとするものである。

 

 飯泉はこうした意識の分析を咥える対象を、「主人と奴隷」だけに限らず、自己意識章B、更には『精神現象学』とほぼ同時期に執筆されたテキスト『イェーナ体系構想Ⅲ』にまで広げる。自己意識章Bを取り上げるのは、自己意識章を統一的に理解するためであり、『イェーナ体系構想Ⅲ』を取り上げるのは、社会状態の生成についてのヘーゲルの基本的な理解を確認するためである。



第2節 予備的考察 『イェーナ体系構想Ⅲ』精神哲学における社会の形成

 

 飯泉は『イェーナ体系構想Ⅲ』における「自然状態」(Naturzustand)という概念に注目し、ヘーゲルにおける社会状態の成立の焦点が「〈普遍性の境位〉への移行」(257)にあると主張する。この時期のヘーゲルによれば、「自然状態」とは「諸個人が相互に自由で無関心的に存在すること」(257)を指す。自然状態の人間は自分が獲得したものを「占有」するが、「占有」状態は不平等であるため、やがて闘争が起こる。しかし相互承認が成立することによって闘争が終わり、「現実的精神」(257)に移行する。したがってヘーゲルにとって社会の形成とは占有に基づく闘争の終了を意味しており、それは人格的な承認によって達成される。

 

 ヘーゲルはこうした「人間の普遍的な結合関係」(258)を「普遍的意志」と呼ぶ。これは大まかにはジャン・ジャック・ルソーの「一般意志」に相当するが、飯泉が指摘するように、ヘーゲルの「普遍意志」は「意志の知」とも言い換えられ、「自分で自分を反省した個別的意志」(258)を意味する。

 

 この2点をまとめると、ヘーゲルにとって社会の形成とは、承認に基づく普遍的意志の成立であり、具体的には自分自身を反省する個別的な意志の成立を指す。こうした意志が成立する「境位」に移行することがいかに可能なのかが、ヘーゲルにおける社会形成の問題となる。以下の諸節で飯泉がヘーゲルの社会形成を問題とする場合、この定式にしたがっているので注意。



第3節 「主人と奴隷」論は何を描いているのか

 

 飯泉は「自己意識」章のうちでAの「主人と奴隷」論が大きな注目を集めてきたことを認めつつ、自身の解釈を示す前に先行研究の検討を行う。飯泉によれば、「主人と奴隷」についての解釈は、大きく分けて「社会論的解釈」(ルカーチコジェーヴ)と「認識論的解釈」(ピピン、ピンカード)に分かれる。

 

 まず社会論的解釈によれば、主奴関係は一種の社会状態の実現を意味するが、飯泉はこれを批判する。飯泉によれば、仮に主奴関係において社会状態が成立するとするならば、「自己意識」章Bにおけるストア主義などの「非社会状態」(263)の成立(ないし後退)をうまく説明することができないからだ。

 

 次に認識論的解釈によれば、「自己意識」章で意識は、自身と他者の関係を対象化し、それによって「自分と他者の規範的関係」(269)を成立させることができる。社会論的解釈との違いは、社会論的解釈が社会の発生を問題にするのに対して、認識論的解釈は認識の原理の自覚という点に強調を置くところにある

 第一節で述べたように、自己意識章に対する認識論的解釈が、飯泉の「自己意識」章の基本的な解釈の立場とバッティングすることは明らかである。繰り返すように、飯泉の考えによれば、自己意識章における意識は「自己矛盾的で自己反省的な運動構造」(185)の中にあるのであって、意識はそれを対象とすることができないが、認識論的解釈はそれを対象化することが自己意識章の課題であると考えているからだ。

 

 しかしそうした批判は、些事ではないだろうか。確かに飯泉と認識論的解釈は「主人と奴隷が社会的関係を築くという点には同意できない」かもしれないが、「何をもって社会的関係にある意識といえるかという論点に関しては類似している」(268)のではないだろうか。

 些事ではない、というのが飯泉の主張である。以降の節で示されるように、飯泉の解釈によれば、自己意識章において認識論的解釈が対象化されるという意識は、決して対象化されないからだ。しかしこうした解釈の詳細と意義を明らかにするためには、まず「自己意識」章の内容を正確に把握する必要がある。



第4節 自他関係を認識しない主人と奴隷

 

 本節ではいよいよ「主人と奴隷」が検討される。まず改めて『精神現象学』における意識概念の規定を確認する。飯泉は「序論」(「緒論」)の以下の箇所を引く。

 

意識はすなわち、或るものをじぶんから区別すると同時に、この或るものに関係している。あるいはこう表現してもよい。或るものが意識に対して存在しているのである。そして、この関係の、あるいは或るものの意識に対する存在の有する一定の側面が、知ということになる。(飯泉 264, GW9 58, 熊野訳 145 強調はすべて外した)

 

 「或るものに関係している」という叙述は、フッサール的な意識の志向性とよく似ているが、同じではない。というのは、「或るもの」は意識と関係している(「或るものに関係している」)だけでなく、意識自身によって意識から区別されてもいる(「或るものをじぶんから区別する」)からである。

 この区別のために「或るもの」は意識にとって「否定的なあり方」(飯泉 264)を有している。すなわち、意識にとって対象は、単に意識に関係するものとして意識に現象するだけでなく、同時に対象が意識から遠ざけられていることを示すものでもあるのだ。

 ここから飯泉による(個人的にはとても納得できる)意識と対象についての定式的な説明が与えられる。

 

この説明によれば、もともとある意識が存在しており、それが自分の好きなように対象に関係するのではない。反対に最初に新しい対象が生成し、それに対応した意識とその関係が導出され規定されるのである。(264)

 

嚙み砕いて言えばこうである。意識と対象の関係は、単なる志向的な関係を意味しない。むしろヘーゲルにとって意識と対象の関係は対象主導の関係であり、具体的な対象の生成に合わせて、その対象に対応する意識と対象の関係が導出され、あるいは更新される。

 

 こうした対象主導の観点から、主人と奴隷の関係も抑えられる必要がある。すなわち、自己意識章Aにおいて、主人は「物」という対象に欲望しているのだから、<主人-欲望-物>という関係は定まっている。同様に、奴隷は主人という対象に対して畏れを抱いているのだから、<奴隷-恐れ-主人>という関係も定まっている。

 

 しかしそれにもかかわらず、これらの関係が実際に「叙述」(264)されることによって、内在する矛盾が露呈していく。この露呈の展開が、『精神現象学』における「意識の経験」であり、飯泉が記述しようとするものである。

 なお、ここで矛盾を「叙述」する主体は、『精神現象学』において<我々>(Wir)と呼ばれているものである。紙幅の都合上詳述はできないが、飯泉は『精神現象学』における意識の経験は、意識の経験であると同時に<我々>に与えられた対象でもあり、意識にとって内在的な矛盾・変容として経験される事態は、対象としては<我々>に与えられると考えている(第四章参照)。

 平たく言えば、意識の矛盾を矛盾として記述できるのは<我々>である。意識は自身の経験を対象化することができず、いわば運動の渦中でひたすら経験に身を沈めている。したがって『精神現象学』は人間の「生き生き」とした「実在性」(コジェーヴ)の記述ではないし、「換喩」(ブランダム)でもない。それは<我々>の立場からみた、「一定の対象への一定の関係を推論的に表現したもの」(265)である。

 

 以上を踏まえたうえで、実際に主奴関係を分析してみる。繰り返すように、主人は欲望という関係において物という対象に関係している(<主人-欲望-物>)のだが、このとき物の生産を欲望の奴隷に頼っている。この点において、主人はむしろ奴隷に依存している非自立的な意識である。反対に、奴隷は物の生産を自らの力によっておこなうことができるが、主人に奉仕しているために、自らの非自立性を自覚せざるを得ない。

 しかしながら、奴隷は主人とは異なり、自分で物を「形作る」(Formieren)ことができ、更には労働を通じて自分自身を「形成」(Bilden)することさえできる。この点において、奴隷に「我意」(eigener Sinn)が生成され、結果として奴隷は自立性を獲得することになる。

 

 こうした叙述において飯泉が強調するのは、ただし、「観点の転換」(266)である。飯泉によれば、ヘーゲルがここで描いていることは主人と奴隷の関係の交代や変容ではない(すなわち、主人は非自立的になり、奴隷は自立的になる、といったような)。あくまでこの帰結は<我々>に与えられているものであって、主人と奴隷はいずれも「自分と他者との関係を対象としていない」(267)。両者は<我々>が考察するような、意識と物の対象を適切に把握していないのである。

 

 したがって、こうした反省が未だ十分に成立していない関係は、明らかにヘーゲル的な意味での社会状態と呼びうるものではない。『イェーナ体系構想Ⅲ』において社会状態とは、諸個人が普遍性の境位にあり、自分自身が置かれている関係一般について反省する状態であったが、その状態に意識は達していない。



第5節 ヘーゲルの自己意識概念の核心 ピピンの認識論的解釈への批判

 

 前節での主奴関係の分析から、ヘーゲルが考えている社会状態の成立がどこに求められるのかも示唆される。すなわちそれは、「自分と他者の関係を対象化している意識」(268)である。そしてここまでは飯泉と認識論的解釈は同意できるのだが、飯泉によれば、こうした自他関係の対象化が成立する意識の形式は、認識論的解釈の見立てとは異なり、自己意識ではありえない。

 

 認識論的解釈の代表であるピピンの立場を、飯泉の整理にしたがって、改めて確認しよう。ピピンによれば、「自己意識」章においては、「人間的欲望」が成立している。すなわち、「自己意識」章冒頭では欲望は「動物」的なものに留まっており、対象をただ否定するだけなのだが、主奴関係の成立を通じて意識は「「欲望する」という他者への自己の関係そのものを対象化する」。そしてそれによって、意識は行為の理由を帰属させることができるような<行為者>という単位を成立させることができる。

 

 飯泉がこうした認識論的解釈に批判の目を向けるのは、自己意識章において自他関係の対象化が起こっているという点である。飯泉によれば、これは自己意識章の構造そのものをピピンが誤解していることを意味している。

 

前節の考察によれば、主人も奴隷も自他関係を対象化しているとはいえなかったが、それは偶然に生じた事態ではない。そもそも自己意識という意識の形式が、意識にとってお意識と対象との関係の対象化を含んでいないのである。なぜなら、自己意識は対象としての自己に関係するが、このとき、対象において自分と他者は関係(統一)しているのではなく、対立ないし分裂しているからである。(270)

 

自己意識章において、意識の対象として自分と他者の統一的関係が成立しているのは、あくまで自己意識の概念のレベルであって、それはまだ十分に実現には至っていない。やや逆説的な表現になるが、自己意識章において自己意識の概念は実現しない。それにもかかわらず自己意識の実現を自己意識章に見出そうとする点に、認識論的解釈の根本的な困難が存する。

 では、自他関係はどの段階で対象化されるのか。飯泉によれば、それは理性の段階であり、具体的な根拠としては理性章の冒頭が挙げられる。

 

自己意識が理性となるとともに、自己意識がいままで他なる存在に対して有していた否定的な関係が、肯定的な関係へと変換する。これまで自己意識にとってはただ、みずからの自立性と自由のみが問題であって、じぶん自身のために世界を犠牲にし、あるいはじぶん自身の現実すら犠牲にして--この両者は自己意識にとって、ふたつながらじぶんの本質を否定するものとしてあらわれたからである--みずからを救いだし、維持しようとしてきたのであった。しかし理性としてじぶん自身を確信するにいたると、自己意識は世界とみずからの現実に対して安らぎを獲得して、それらに耐えることができるようになる。(飯泉 271, GW9 132, 熊野訳 368 強調はすべて外した)

 

意識は「自己意識」章を経て自身の自立性のみを問題とする段階から自由になり、そしてそれによって世界と自身の関係に安らぎを獲得するようになり、また、それらと肯定的な関係を有するようになった。飯泉によれば、こうした「理性」章冒頭においてこそ、ヘーゲル的な意味での社会状態(普遍性の境位)が成立したとみるべきである。

 しかしこのように考えた場合、どのようにして意識がこの段階に至ったのかが問題となる。そこで飯泉は再び「自己意識」章に戻り、「自己意識」章の最終局面である「不幸な意識」を検討する。



第6節 意識にとっての世界の生成 「不幸な意識」の経験

 

 「自己意識」章Bの「不幸な意識」は、キリスト教との関係において読解されることが多かったが、飯泉はここまでの議論を踏まえて、社会形成の議論として解釈する。

 不幸な意識を一言でいえば、「主人と奴隷という二つの個別的なものに割りあてられていた」(飯泉 272, GW9 121, 熊野訳 336)意識の自立性と非自立性が、今や一つの意識のなかに詰め込まれている意識である。そのため意識は一方では自己を確信して他者を否定しようとする(主人)が、他方では他者を本質とみなして自己を否定しようとする(奴隷)。飯泉の表現を用いれば、「不幸な意識は、自分の個別性に固執すると同時に、普遍的な他者であろうとする」(272)のである。

 「不幸な意識」の叙述を順にみていく。まず「不変なもの」(das Unwandelbaren)が形態化した「不変な意識」(飯泉 273, GW9 123)が、意識の対象となる。これは概ね神の子イエス・キリストとその信徒の関係であると言えるが、この対象に引きずられて、意識は様々な運動を経験する。

 最初の「純粋意識」は、対象を手の届かない「彼岸」に置くことによって、対象に「憧憬」を抱く。このときの意識の態度は「お香の焚かれた礼拝堂でイエスの死を想って苦しむ」(273)ようなものであり、世界には関与しない。

 次の「個別的実在」では、意識は「欲望や労働」という仕方で対象と関係し、その結果、対象が二重化する。具体的に言えば、意識は「現実の世界で大地に対して働きかけ」、「その産物を飲み食いする」(273)のだが、世界そのものを普遍的なものと考えないために、粗野な現実と真正化された世界という仕方で世界を分裂させてしまう。

 これに対して最後の「自分の対自存在の意識」は、対象である「不変な意識」にアクセスできない自分自身を、「不変なもの」の意志に基づいて放棄する。ただしこの自己放棄が単なる個人の開き直りではなく、まさしく「不変なもの」の意志によってなされるということを意識に示すのは、意識自身ではなく、「媒介者」(der Vermittler)である。

 ただし飯泉は、この「媒介者」がヘーゲルによって都合よく外挿されたわけではなく、むしろ「「不幸な意識」の運動過程から内在的に生成したもの」(275)であると主張し、その根拠として以下の箇所を引用する。

 

この中項は、それ自身、意識された実在である。というのも、中項は意識それ自身を媒介する行為だからである。この行為の内容は、意識が自らの個別性について企てる滅却である。(飯泉 275, GW9 130)

 

飯泉によれば、ここでヘーゲルが述べているのは「中項」すなわち第三者は、自らを「滅却」する意識の行為である、ということだ。すなわち「滅却」という行為を通じて、意識と対象の関係が第三者を通じて「中項」というかたちで対象化されているのである。そしてこうした意識の行為を通じて、分裂していた世界は対象化され、理性の段階へと移行するのだ。



第7節 自己意識章と「世界」の認識

 

 第六節でみたように、意識は「滅却」の行為を経て仲介者を生み出し、意識と対象の関係を対象化する。しかし飯泉は<我々>にとっては意識と対象の関係が意識にとって対象化されているにもかかわらず、当の意識本人は媒介者を「よそよそしい「第三者」」(276)として捉えていることに、更に注意を促している。つまり自己意識による自身の対象化は、なおいまだ不完全なものなのである。飯泉が正しく指摘するように、「「世界」は意識の潜在的な対象としてまだようやく現れただけであり、理性章で展開される意識の書経験を経なければ、「世界」の脅威として具体的に拡充し実在化することは無い」(276)。

 ただし反対に言えば、自己意識章を踏破することによって意識は「世界」を認識する状態に至ったのであるから、「意識に対する「世界」の生成こそ、自己意識章に託された重大な役割である」(277)と結論することができるのである。