ふつうのおたくの日記

漫画と『ブルーアーカイブ』のことを中心に、ゆるゆると書きます。

『論理と実存』

前回の、

kyakunon.hatenablog.com

つづき。

 

自己意識は自分自身に対してロゴスでない時、自分がもはや犠牲となるしかないような論理の餌食となる。弁証法はもともと自己意識に対して、自己意識が自分自身に対してこの弁証法でない時、遂行されるのである。(32)

 

美しい魂は、話法のこちら側で自分を唯一だと思った直接的な意識が実行した運動を、自分だけで、また素朴さを失いながら実行する。美しい魂はついに分解して狂気となり、純粋な存在もしくは無の直接性の中に沈む。(33)

ん?無じゃなくて存在でもいいんだっけ。「狂気」というメタファーがここで出るか。

 

「真実の」と言うのは、特殊な諸規定の媒介を引き受け、抽象的な個別から抽象的な普遍へ--両社はあの媒介の拒絶によって同一であることが確かめられる--際限もなく動揺しない、という意味である。言語が言い表すのは、この普遍的媒介である。語るのは私であり、私は出来事と事物を語る。そして私が語ることは、もはやすでに私ではない。「私はこの私でも普遍的な私でもある」。しかし、私が語ることは、私がそれを語る限り、それが理解されうる言葉である限り、諸規定の不透明さを普遍性のエレメントの中へ移し入れる。こうして、絶対者は人間を通しての意味およびロゴスとして現れる。(34)

「絶対者は人間を通しての意味およびロゴスとして現れる。」すごくだいじ。これイポリットの中心的なテーゼですね。ロゴスとして生きることが実存なのである、というか。この仕事は、ロゴス論を予告しながら結局できなかった『存在と時間』の欠落を埋める仕事として言い得ないだろうか。

 

この知識は自分をこのようなものとして知る時、すなわちそれがもはや単に存在とか人間の運命とかに関する、人間の弁証法的話法ではなく、存在の話法であり、知識の他者としてしか自己を明らかに示さなかったものにおける絶対的な自己確信であり、哲学の論理学であってもはや単に現象学ではない時、絶対的なものとなったのである。(35)

うーん、絶対的な自己確信って、ヘーゲルいうやろうか。確信って単なる現象学のカテゴリーでは。

 

 ここから始まるヒューマニズム批判がおもろいところなんだけど、それから急に詩というものが出てくるのも楽しいのだけれども、忙しいのでまたあとで。