ふつうのおたくの日記

漫画と『ブルーアーカイブ』のことを中心に、ゆるゆると書きます。

『精神現象学』

  予習。まあ、ぼちぼち読めるかなあと思ったので、イポリット訳を眺めてみる。

 

 

Le fait que la vérité de la loi est essentiellement réalité, pour cette conscience qui en reste à l'observation, devient à nouveau une opposition à l'égard du concept et à l'égard de l'universel en soi; en d'autres termes une chose telle que sa loi n'est pas pour cette conscience une essence de la raison; elle tient, à son avis, dans la loi quelque chose d'étranger.

こんな感じ?

法則の真理が本質的に実在であるという事実は、観察の状態にとどまるこの意識にとって、概念についての対立と即自的に普遍的なものについての対立に、再び至ることになる。別言すれば、事物の法則が、この意識にとって理性の本質ではないのだ。事物は、意識からみると、何か見慣れないものをもっているのである。

熊野訳をみたうえで修正…

法則の真理が本質的に実在であるという事実は、観察の状態にとどまるこの意識にとって、概念についての対立物と、即自的には普遍的なものについての対立物に、再び至ることになる。別言すれば、意識の法則は、この意識にとって理性の本質ではないのだ。意識は、意識の思念としては、何か疎遠なものをもっているのである。

 

Mais elle réfute son avis, en tant qu'elle ne prend pas l'universalité de la loi dans ce sense que toutes les choses sensibles singulières devraient lui avoir montré la manifestation de la loi, pour qu'elle puisse en affirmer la vérité.

 

しかし意識は、あらゆる感覚的個物が法則の証明を自分に示すようになったという感覚のなかにあって、法則の普遍性を手にしていないため、真理を保証することができるために、自分の思念に反論する。

修正。接続法…

しかし意識は、「真理を断言することができるためには、あらゆる感覚的個物が法則の顕示を自分に示さなくてはならない」という意味において法則の普遍性を考えているわけではないため、自分の思念に反論する。

まとめるとこういうことかな。意識がもっている法則は疎遠なものなのだけれど、意識はその疎遠さに自分で反論する。なぜならば、意識は法則の普遍性を、あらゆる感覚の対象が法則の証明になるという意味で捉えていないから。

 熊野訳だと重視されている「行為」(Tat)という訳語は、イポリットだと落とされているのかな。まあ、意味としては無くても分からんでもないか。要するに思っていることとやっていることが違うということなので。

 

Pour établir la loi que les pierres, soulevées au-dessus de la terre et abandonnées à elles-mêmes, tombent, la conscience n'exige pas que l'épreuve ait été faite sur toutes les pierres. Elle dit bien que cela doit avoir été essayé avec bon nombre de pierres, d'où on peut ensuite conclure pour les autres par analogie, avec une très grande probabilité, ou même de plein droit.

はい。

「地上から持ち上げられて、それだけにされた石は、落下する」という法則を打ち立てるために、意識が「試験があらゆる石に対してなされる」ということを求めるということは無い。意識は「試験がちょうどいい数の石によって試行される」と言うのだが、続いて他者に対しては、非常に大きな可能性すなわち十分な権利をもって、類推によって結論が下されうる。

これくらいなら、まあ悪くないか。

 意味としては、「bien que~確かに(接続法現在)と言うのだが」があるので、意識の言い分としては十分な数の石でやってるというんだけど、結局類推だよね、という話。思いなし=十分な回数、実際にやってること=類推、ということか。そしてこの類推というものが実験を矛盾に陥れると。

 ちなみにイポリット訳の注釈だと、類推批判はシェリング批判に基づく論点らしい。エンツュクロペディ―参照とのこと。

 

 全然進んでないが、仕事が降ってきたのでここまで。