ふつうのおたくの日記

漫画と『ブルーアーカイブ』のことを中心に、ゆるゆると書きます。

声と命


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 『ブルーアーカイブ』のキャラクターにファンが命を吹き込む方法は無数にある。

 例えば動画をみてみると、3Dモデルやアニメーションを使ってキャラクターを動かしている。


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 これらがいずれも素晴らしい作品であることは疑いえない。ただ、これらの作品が下江コハルに生命を与えているのは、専ら視覚的情報に拠っている。言葉すなわち台詞は基本的に公式のもののリユースであり、元々の文脈から切り離して別の場面に置くことによって、キャラクターに生命を与えている。

 これに対して、外湯氏がコハルに生命を与えるのは、音の改造、すなわち聴覚的情報の変化によってである。

 順番にみていこう。コハルをテーマとした音MADの第一作である『エッチなのはダメダメのうた【ブルーアーカイブ】』は、『クレヨンしんちゃん』のオープニング曲である『ダメダメのうた』に、しかし原曲以上に「ダメ」を詰め込むことで、『ダメダメのうた』のなかにうまくコハルを位置づけている。


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 しかしこの作品においては、未だ声の改造はさほどみられない。むしろ目立つのは「過酷」や「変態」といった、ブルアカの二次創作でよくみられる視覚的表現である。こういってよければ、この動画はたいへん分かりやすく、普通に見ていたら意味がわかる動画だ。(もちろん、これは別に悪口ではない。念のため。)

 しかし、外湯氏の表現は次第に先鋭化していく。次の『死刑のワルツ【ブルーアーカイブMAD】』には既に独特の聴覚的表現がみられる。


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 この作品は過渡期といってよい。一方でポルノ的なメモロビを並べるという点は第一作目と同様であり、最後の左右対称の顔面も、そうした「エッチ」なメモロビを楽しむ先生への「死刑」宣告として理解できる。

 他方で、この動画には「ダメ駄目「」」という新しい表現が登場している。これが単なる「ダメ」の繰り返しではないことに注意しよう。コハルのオリジナルの台詞は「エッチなのはダメ!死刑!」であり、「ダメ「」」ではない。一見すると単に「ダメ」を重ねて削っただけに聞こえる「ダメだ」は、しかし、単なる削減ではない。実のところそれは、「ダメ」と「」を繋ぎ合わせることによって作り出された、新しい言葉なのだ。

 

 第三作目である『ダメの通り道』からは、エッチなメモロビはもはや登場しない。そこで存分に味わうことができるのは、「ダメだ」だけである。


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 驚くべきことに、この作品では「ダメ」と「死刑」、そして「ダメだ」という言葉しか登場しないし、コハル人形のほかに生徒のイメージは登場しない。「エッチ」は言葉さえ登場しないし、画面の中に素朴な意味でのセクシャルなものは存在しない。

 代わりに登場するのは、新たなコハルのイメージを形成する試みだ。イラストやCG、あるいはアニメーションという2次元のキャラクターとして存在するはずのコハルは、この作品では3次元のコハル人形によって表現される。しかもそれは写真によって平面的な四角の枠に閉じ込められ、六面体によって再び立体に戻される。2次元と3次元を行き来しながら、コハルというものについての新たなイメージが、「ダメだ」と共に展開される。

 

 最新作『ダメの憧憬【ブルアカMAD】』では「エッチ」および「エッチなの」という言葉が再び登場するが、もはや外湯氏の画面にセクシャルなイメージは必要ではない。補習授業部の様子やトリニティの校舎は画面の中に映されているものの、やはり直接的に「エッチ」な画像が提示されるわけではなく、むしろそれらは過去の記憶として想起されているかのように、くすんだ色遣いで示される。

 この動画の中心であるコハル人形は、はじめ左右対称の状態で映されている。言うまでもなくコハルは左右対称ではないが、コハル人形も左右対称ではない。左右対称コハル人形は、鏡という、本来自己をそのまま映し出すことによって自己の同一性(アイデンティティ)を確認するはずの装置によって作り出された、歪な自己のイメージである。しかもそれはコハル当人ではなく、コハル人形のイメージの歪な変形であるという意味において、二重に不気味だ。ただしそれは単なる分裂ではなく、あくまでコハルというキャラクターのなかでの曖昧さである。

 そして動画全体が、この曖昧さを反復している。この作品においては、コハルらしきシルエットが(特にエデン条約編あたりの)思い出を振り返りつつ、回転するコハル人形と交錯する様子が描かれているが、例えばマグリットの『ゴルコンダ』が参照されている。『ゴルコンダ』の主題は自己の不安定らしい(ここにそう書いている)。

 じっさい、単なる人形は立体的にくるくる回るが、反対に適切な等身のコハルはシルエットであって、おぼろげにしか見えない。コハルとは誰か?という自己の問いは、彼女の大切な記憶を辿りながら、人形と影が交錯し、両者の数がどんどんと増えていくなかで、次第に曖昧になっていくのである。

 

 増え続けるコハルの影と人形、そして「ダメだ 死刑」のなかで、突如として差し挟まれる「エッチ」は、このような観点からすれば、極めて感動的だ。

 むろん「エッチ」と言っても、別に少女の裸体が映されるわけではない。古ぼけたブラウン管のテレビから幽霊が飛び出すように、ゆらゆらと揺れる線の集まりとして、コハル人形がアップで映される。

 この顔は何をわたしに語っているのだろうか?いずれにせよ、分裂し続けるコハル人形はこの場面を境にほとんど消えてしまい、最後には再び左右対称コハル人形があらわれる。だからこの動画では、曖昧なコハルのイメージは曖昧さをたもったまま、しかし空中分解することなく、存在することに成功する。「エッチ」はアクセントとして機能し、「ダメ」「ダメだ」という自己否定を緩和する。

 以前『922歳位にはカリフォると思ってた』について、それが最終的に「SEX」を結論とすると書いたが、話の転換点に「エッチ」を持ってきて感動をうむ『ダメの憧憬』も、物語の構造としてはよく似ている。違うのは、後者において、「エッチ」という言葉はコハル自身の言葉であるということだ。『922歳〜』の「SEX」はあくまでケイティ・ペリーの言葉であって、ムツキのそれではない。これに対して『ダメの憧憬』の「エッチ」は、コハルのもともとの言葉を使いつつ、その配置を変更することで表れた表現である。

 コハル自身の言葉によって新しいコハルをつくる――これこそ『ダメの憧憬』が成し遂げていることに他ならない。