ふつうのおたくの日記

漫画と『ブルーアーカイブ』のことを中心に、ゆるゆると書きます。

理由の哲学

 理由の哲学をなぜか勉強しようと思い、SEPのReasons for Action: Justification, Motivation, Explanationの項目を1人で訳していたことがある。当時はなぜそんなことをやっていたのかよく分からないが、今は何となく分かる。わたしは知識を増やしたかったのだ。

 わたしが今やっていることは、概ね、なぜ理由が成立するのか?という、理由の外部からの理由へのアプローチである。そして加藤尚武が指摘するように、メタ○○学というとき、○○から離れた「メタ」は無意味だろう。だから相場感を知るために、わたしは理由の哲学を勉強しているのだと思う。

 ざっとみた感じ、述語はまだまだ整備中、という印象を受ける。今のところ理由の哲学の日本の最先端は池田さんのこれだと思うが、これにしても基本的な述語をどう検討するかという問題に取り組んでいるように思う。(もちろん、だから駄目、ということではなく。むしろ非常に哲学的でよいと感じる。)

 わたしの何も考えていない適当な話になるが、問題はアスペクトではないだろうか。つまりダンシーよろしく、理由の問題とは物事をどう見るかという問題であり、実際にあるかどうか、ではない(それを問わなければならないということはない)。問題は見方の違いであり、カント的な二元論である、という。

 まあまあ、ゆっくりやろう。

ピピン、?

 飲み会で「概念実在論についてどう思うか」と言われたが、答えに窮してしまった。答えられた方がええのは分かるけど。SoT、読んだ方がいい?

 ピピン先生は「実在」とは言わないだろうなあ。あのひとはカントなので。あくまで超越論的主体にこだわると思う。個人的にしっくり来るのは認識論かな。やっぱり。あくまで認識のシステムをごちゃごちゃいじってる感じ。

 なんかやっぱり、わたしは理由の哲学をきっちり詰めた方がよさそう。あとヴィトゲンシュタイン???

論理的実存主義?

 イポリットとピピンを並行して読むと、両者がかなり似ていることに気がつく。すなわち、統覚の承認論的拡張というピピンのラインと、私のディスクールにおけるロゴスの顕現というイポリットのラインとが、ということだ。ピピンはカントから出発して広がり、イポリットは語り得ぬものから出発して広がる。

 どうだろう?イポリットにおける詩は、おそらく語る私の目から見たものだが、ピピンにおける芸術は?これは面白いかもしれない。

 ただイポリットはあまりカントについては述べない。むしろ語りにおけるハイデガー的実存のことを言う。これはピピンと違い、ピピン以上に楽しいところ。ただ言語への特権が生じる。イメージについてはピピンに一日の長があるーーすなわち、私という意識のサイズの成立のこと。

 カント、ヘーゲルハイデガーを並行させながら、ピピンとイポリットを調停すること。これって、たぶんわたしの哲学の課題じゃないかな。

 

 

 もうちょっと詰めたことを書いておくか。ピピンがモデルとして置いているのは、規則に従うという場面である。「よろしい、規則(純粋悟性概念)はあるだろう。」しかし、では、「なぜその規則に従うのか?」カントは構想力を持ち出すが、それは何か、ということが問題となる。中野のように、あるいは、構想力を「無媒介的な直接的統一」のコアとして持ち出してもいいかもしれない。しかしそうなると問題はこうである。なぜ構想力はあるのか?悟性なら分かるかもしれない。超越論的演繹によって、客観的妥当性をもつ命題を提示しようとするわけだから。しかし構想力はなぜ出てくるのか?

 ここでヘーゲルの「信仰と知」を参照すれば、構想力は推論的連結の一部である、ということになる。しかし推論的連結とは何か?ピピンはそれをセラーズに倣って理由の空間といったり、承認による社会的規範と言ったりするだろう。あるいは端的にロゴスと、そう言ってもよいかもしれない。

 ロゴス?しかしそういったとき、言語の問題が先鋭化する。構想力、推論、行為、規則の問題とは、結局、語る主体すなわち現存在の問題なのではないか?イポリットであればそう言うだろう。

 しかしそう述べたときに、理性の問題が均され、単なる技術の問題になってしまうのではないか。これはもしかするとアドルノの問題かもしれない。ともあれ。

『論理と実存』

前回の、

kyakunon.hatenablog.com

つづき。

 

自己意識は自分自身に対してロゴスでない時、自分がもはや犠牲となるしかないような論理の餌食となる。弁証法はもともと自己意識に対して、自己意識が自分自身に対してこの弁証法でない時、遂行されるのである。(32)

 

美しい魂は、話法のこちら側で自分を唯一だと思った直接的な意識が実行した運動を、自分だけで、また素朴さを失いながら実行する。美しい魂はついに分解して狂気となり、純粋な存在もしくは無の直接性の中に沈む。(33)

ん?無じゃなくて存在でもいいんだっけ。「狂気」というメタファーがここで出るか。

 

「真実の」と言うのは、特殊な諸規定の媒介を引き受け、抽象的な個別から抽象的な普遍へ--両社はあの媒介の拒絶によって同一であることが確かめられる--際限もなく動揺しない、という意味である。言語が言い表すのは、この普遍的媒介である。語るのは私であり、私は出来事と事物を語る。そして私が語ることは、もはやすでに私ではない。「私はこの私でも普遍的な私でもある」。しかし、私が語ることは、私がそれを語る限り、それが理解されうる言葉である限り、諸規定の不透明さを普遍性のエレメントの中へ移し入れる。こうして、絶対者は人間を通しての意味およびロゴスとして現れる。(34)

「絶対者は人間を通しての意味およびロゴスとして現れる。」すごくだいじ。これイポリットの中心的なテーゼですね。ロゴスとして生きることが実存なのである、というか。この仕事は、ロゴス論を予告しながら結局できなかった『存在と時間』の欠落を埋める仕事として言い得ないだろうか。

 

この知識は自分をこのようなものとして知る時、すなわちそれがもはや単に存在とか人間の運命とかに関する、人間の弁証法的話法ではなく、存在の話法であり、知識の他者としてしか自己を明らかに示さなかったものにおける絶対的な自己確信であり、哲学の論理学であってもはや単に現象学ではない時、絶対的なものとなったのである。(35)

うーん、絶対的な自己確信って、ヘーゲルいうやろうか。確信って単なる現象学のカテゴリーでは。

 

 ここから始まるヒューマニズム批判がおもろいところなんだけど、それから急に詩というものが出てくるのも楽しいのだけれども、忙しいのでまたあとで。

『精神現象学』

  予習。まあ、ぼちぼち読めるかなあと思ったので、イポリット訳を眺めてみる。

 

 

Le fait que la vérité de la loi est essentiellement réalité, pour cette conscience qui en reste à l'observation, devient à nouveau une opposition à l'égard du concept et à l'égard de l'universel en soi; en d'autres termes une chose telle que sa loi n'est pas pour cette conscience une essence de la raison; elle tient, à son avis, dans la loi quelque chose d'étranger.

こんな感じ?

法則の真理が本質的に実在であるという事実は、観察の状態にとどまるこの意識にとって、概念についての対立と即自的に普遍的なものについての対立に、再び至ることになる。別言すれば、事物の法則が、この意識にとって理性の本質ではないのだ。事物は、意識からみると、何か見慣れないものをもっているのである。

熊野訳をみたうえで修正…

法則の真理が本質的に実在であるという事実は、観察の状態にとどまるこの意識にとって、概念についての対立物と、即自的には普遍的なものについての対立物に、再び至ることになる。別言すれば、意識の法則は、この意識にとって理性の本質ではないのだ。意識は、意識の思念としては、何か疎遠なものをもっているのである。

 

Mais elle réfute son avis, en tant qu'elle ne prend pas l'universalité de la loi dans ce sense que toutes les choses sensibles singulières devraient lui avoir montré la manifestation de la loi, pour qu'elle puisse en affirmer la vérité.

 

しかし意識は、あらゆる感覚的個物が法則の証明を自分に示すようになったという感覚のなかにあって、法則の普遍性を手にしていないため、真理を保証することができるために、自分の思念に反論する。

修正。接続法…

しかし意識は、「真理を断言することができるためには、あらゆる感覚的個物が法則の顕示を自分に示さなくてはならない」という意味において法則の普遍性を考えているわけではないため、自分の思念に反論する。

まとめるとこういうことかな。意識がもっている法則は疎遠なものなのだけれど、意識はその疎遠さに自分で反論する。なぜならば、意識は法則の普遍性を、あらゆる感覚の対象が法則の証明になるという意味で捉えていないから。

 熊野訳だと重視されている「行為」(Tat)という訳語は、イポリットだと落とされているのかな。まあ、意味としては無くても分からんでもないか。要するに思っていることとやっていることが違うということなので。

 

Pour établir la loi que les pierres, soulevées au-dessus de la terre et abandonnées à elles-mêmes, tombent, la conscience n'exige pas que l'épreuve ait été faite sur toutes les pierres. Elle dit bien que cela doit avoir été essayé avec bon nombre de pierres, d'où on peut ensuite conclure pour les autres par analogie, avec une très grande probabilité, ou même de plein droit.

はい。

「地上から持ち上げられて、それだけにされた石は、落下する」という法則を打ち立てるために、意識が「試験があらゆる石に対してなされる」ということを求めるということは無い。意識は「試験がちょうどいい数の石によって試行される」と言うのだが、続いて他者に対しては、非常に大きな可能性すなわち十分な権利をもって、類推によって結論が下されうる。

これくらいなら、まあ悪くないか。

 意味としては、「bien que~確かに(接続法現在)と言うのだが」があるので、意識の言い分としては十分な数の石でやってるというんだけど、結局類推だよね、という話。思いなし=十分な回数、実際にやってること=類推、ということか。そしてこの類推というものが実験を矛盾に陥れると。

 ちなみにイポリット訳の注釈だと、類推批判はシェリング批判に基づく論点らしい。エンツュクロペディ―参照とのこと。

 

 全然進んでないが、仕事が降ってきたのでここまで。

声と命


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 『ブルーアーカイブ』のキャラクターにファンが命を吹き込む方法は無数にある。

 例えば動画をみてみると、3Dモデルやアニメーションを使ってキャラクターを動かしている。


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 これらがいずれも素晴らしい作品であることは疑いえない。ただ、これらの作品が下江コハルに生命を与えているのは、専ら視覚的情報に拠っている。言葉すなわち台詞は基本的に公式のもののリユースであり、元々の文脈から切り離して別の場面に置くことによって、キャラクターに生命を与えている。

 これに対して、外湯氏がコハルに生命を与えるのは、音の改造、すなわち聴覚的情報の変化によってである。

 順番にみていこう。コハルをテーマとした音MADの第一作である『エッチなのはダメダメのうた【ブルーアーカイブ】』は、『クレヨンしんちゃん』のオープニング曲である『ダメダメのうた』に、しかし原曲以上に「ダメ」を詰め込むことで、『ダメダメのうた』のなかにうまくコハルを位置づけている。


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 しかしこの作品においては、未だ声の改造はさほどみられない。むしろ目立つのは「過酷」や「変態」といった、ブルアカの二次創作でよくみられる視覚的表現である。こういってよければ、この動画はたいへん分かりやすく、普通に見ていたら意味がわかる動画だ。(もちろん、これは別に悪口ではない。念のため。)

 しかし、外湯氏の表現は次第に先鋭化していく。次の『死刑のワルツ【ブルーアーカイブMAD】』には既に独特の聴覚的表現がみられる。


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 この作品は過渡期といってよい。一方でポルノ的なメモロビを並べるという点は第一作目と同様であり、最後の左右対称の顔面も、そうした「エッチ」なメモロビを楽しむ先生への「死刑」宣告として理解できる。

 他方で、この動画には「ダメ駄目「」」という新しい表現が登場している。これが単なる「ダメ」の繰り返しではないことに注意しよう。コハルのオリジナルの台詞は「エッチなのはダメ!死刑!」であり、「ダメ「」」ではない。一見すると単に「ダメ」を重ねて削っただけに聞こえる「ダメだ」は、しかし、単なる削減ではない。実のところそれは、「ダメ」と「」を繋ぎ合わせることによって作り出された、新しい言葉なのだ。

 

 第三作目である『ダメの通り道』からは、エッチなメモロビはもはや登場しない。そこで存分に味わうことができるのは、「ダメだ」だけである。


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 驚くべきことに、この作品では「ダメ」と「死刑」、そして「ダメだ」という言葉しか登場しないし、コハル人形のほかに生徒のイメージは登場しない。「エッチ」は言葉さえ登場しないし、画面の中に素朴な意味でのセクシャルなものは存在しない。

 代わりに登場するのは、新たなコハルのイメージを形成する試みだ。イラストやCG、あるいはアニメーションという2次元のキャラクターとして存在するはずのコハルは、この作品では3次元のコハル人形によって表現される。しかもそれは写真によって平面的な四角の枠に閉じ込められ、六面体によって再び立体に戻される。2次元と3次元を行き来しながら、コハルというものについての新たなイメージが、「ダメだ」と共に展開される。

 

 最新作『ダメの憧憬【ブルアカMAD】』では「エッチ」および「エッチなの」という言葉が再び登場するが、もはや外湯氏の画面にセクシャルなイメージは必要ではない。補習授業部の様子やトリニティの校舎は画面の中に映されているものの、やはり直接的に「エッチ」な画像が提示されるわけではなく、むしろそれらは過去の記憶として想起されているかのように、くすんだ色遣いで示される。

 この動画の中心であるコハル人形は、はじめ左右対称の状態で映されている。言うまでもなくコハルは左右対称ではないが、コハル人形も左右対称ではない。左右対称コハル人形は、鏡という、本来自己をそのまま映し出すことによって自己の同一性(アイデンティティ)を確認するはずの装置によって作り出された、歪な自己のイメージである。しかもそれはコハル当人ではなく、コハル人形のイメージの歪な変形であるという意味において、二重に不気味だ。ただしそれは単なる分裂ではなく、あくまでコハルというキャラクターのなかでの曖昧さである。

 そして動画全体が、この曖昧さを反復している。この作品においては、コハルらしきシルエットが(特にエデン条約編あたりの)思い出を振り返りつつ、回転するコハル人形と交錯する様子が描かれているが、例えばマグリットの『ゴルコンダ』が参照されている。『ゴルコンダ』の主題は自己の不安定らしい(ここにそう書いている)。

 じっさい、単なる人形は立体的にくるくる回るが、反対に適切な等身のコハルはシルエットであって、おぼろげにしか見えない。コハルとは誰か?という自己の問いは、彼女の大切な記憶を辿りながら、人形と影が交錯し、両者の数がどんどんと増えていくなかで、次第に曖昧になっていくのである。

 

 増え続けるコハルの影と人形、そして「ダメだ 死刑」のなかで、突如として差し挟まれる「エッチ」は、このような観点からすれば、極めて感動的だ。

 むろん「エッチ」と言っても、別に少女の裸体が映されるわけではない。古ぼけたブラウン管のテレビから幽霊が飛び出すように、ゆらゆらと揺れる線の集まりとして、コハル人形がアップで映される。

 この顔は何をわたしに語っているのだろうか?いずれにせよ、分裂し続けるコハル人形はこの場面を境にほとんど消えてしまい、最後には再び左右対称コハル人形があらわれる。だからこの動画では、曖昧なコハルのイメージは曖昧さをたもったまま、しかし空中分解することなく、存在することに成功する。「エッチ」はアクセントとして機能し、「ダメ」「ダメだ」という自己否定を緩和する。

 以前『922歳位にはカリフォると思ってた』について、それが最終的に「SEX」を結論とすると書いたが、話の転換点に「エッチ」を持ってきて感動をうむ『ダメの憧憬』も、物語の構造としてはよく似ている。違うのは、後者において、「エッチ」という言葉はコハル自身の言葉であるということだ。『922歳〜』の「SEX」はあくまでケイティ・ペリーの言葉であって、ムツキのそれではない。これに対して『ダメの憧憬』の「エッチ」は、コハルのもともとの言葉を使いつつ、その配置を変更することで表れた表現である。

 コハル自身の言葉によって新しいコハルをつくる――これこそ『ダメの憧憬』が成し遂げていることに他ならない。

『論理と実存』

 イポリットの『論理と実存』が届いたので、ぼちぼち読んでいく。

 

 

第一部 言語と論理

 

序論

 

弁証法的発明は存在の発見にほかならない。それは多かれ少なかれ気ままな構成ではないのであって、弁証法的証明は現実と一体をなし、現実は意味をはらんだ言語の中で自己を解釈し、自己自身を反省する。 (10)

L'invention dialectique n'est qu'une découverte de l'être; elle n'est pas une construction plus ou moins arbitraire, et la démonstration dialectique fait corps avèc la réalité qui s'interprète et se réfléchit elle-même dans un langage plein de sens. (4)

 

 弁証法的な発明は存在の発見である。それは対象の構成ではない。言語の中で自らを解釈し自らを反省する現実とともにある。イポリットはこの解釈の根拠として、『論理学』「本質論」の「現実性」(Wirklichkeit)のカテゴリーをもち出す。

 

さて、人間の経験の最高の形式(そして人間の経験の外にあるようなものは何も存在しない)は、存在と知識との同一性の開示であり、あの普遍的自己意識--この内部で存在は、語る自我をも語られる事物をも言い表しながら、自己を語り自己を表現する--の構造を洞察することであるように思われる。したがって、いくつかのカテゴリーに、すなわち弁証法的連鎖の契機もしくは結び目に、多様化するカテゴリーの運動を追求することは、哲学を論理学にすることであり、このようなことこそヘーゲルの企てたことの意味である。

Il apparaît alors que la plus haute forme de l'expérience humaine (et il n'y a rien qui soit en dehors de l'expérience humaine), c'est la révélation de l'identité de l'être et du savoir, c'est la pénétration dans la structure de cette conscience de soi universelle au sein de laquelle l'être se dit, s'exprime, énonçant aussi bien la chose dont on parle que le moi qui parle. Suivre ainsi le mouvement de la catégorie se diversifiant en catégories, en moments ou nœuds particuliers d'une chaîne dialectique, c'est faire une logique de la philosophie, et tel est bien le sens de l'entreprise hégélienne.

 んー、難しい。とりわけ、普遍的な自己意識の構造が語る「わたし」と語られる事物(ショーズ)を言表することで自らを表現することがなぜ哲学を論理学にすることなのかがわからん。

 それからほーんと思ったのは、イポリットにとって論理学の、ないし存在を語るものは、自我(moi)なのね。わいはええと思うよ。

 

 

第一章 言い表しがたいもの

 

「言語において、自己意識の対自的に存在する個別性そのものが実存するようになる。したがって、この個別性がもろもろの他者に対して存在する。自我はこの自我であるが、しかしまた普遍的自我である、と人が言うことができるのは、言語においてである」。これがヘーゲルの結論である。 (19)

<< Dans le langage la singularité étant pour soi de la conscience de soi entre comme telle dans l'existence, en sorte que cette singularité est pour les autres. C'est dans le langage conclut Hegel, qu'on peut dire : Moi est ce moi-ci, mais est aussi bien Moi universel. >> (11)

参照されている『現象学』の該当箇所では、イポリットは次のように訳している。

Dans le langage la singularité étant pour soi de la conscience de soi entre comme telle dans l'existence[40], en sorte que cette singularité est pour les autres. Le moi comme ce pur moi, autrement que par le langage, n'est pas là. Dans toute autre extériorisation, le Moi est immergé dans une effectivité et dans une figure dont il peut se retirer. Hors de son action comme de son expression de physionomie le Moi est réfléchi en soi-même et laisse vide d'âme un tel être-là incomplet dans lequel il y a toujours à la fois trop et trop peu[41] ; mais le langage comtient le Moi dans sa pureté ; seul il énonce le Moi, le Moi lui-même. Cet être-là du moi est, comme être-là, une objectivité qui a en elle sa vraie nature. Moi est ce Moi-ci, mais est aussi bien Moi universel.  (tome.2, 69)

太字が参照されているところで、よくみると分かるように、けっこう離れている。日本語訳だけみたひとは、対応がとれなくて困惑するだろうと思う。ちなみに同じ個所を、熊野訳はこう訳している。

ことばというかたちで立ちあらわれるのは、自己意識がじぶんに対して存在する個別性そのものであり、その個別的なありかたが現実存在するけっか、それはまた他者たちに対して存在することになる。この純粋な<私>としての<私>は、ことばを措いてほかに、そこに現に存在することはない。ことば以外の他のどのような外化においても、<私>は現実のうちに沈みこんでおり、<私>が存在する形態は、そこから<私>がじぶんを取りもどしうるものである。<私>はみずからの行為からも、その人相術的な表現からも、じぶんのうちへ反省的に立ちかえっており、そうした不完全なそこに現にある存在を--そのような存在においてはいつでもなにかが多すぎるとともに、すくなすぎるのだ--、それがまるでたましいの抜け殻であるかのように置きざりにする。いっぽう、ことばがふくんでいるのは、その純粋なありかたにおける<私>であり、ひとりことばのみが<私>を、<私>自身を言いあらわす。<私>のこの現存在も、現にそこにある存在としては一個の対称性である。この対称性は<私>の真の本性を、それ自身そなえている。<私>とはこの<私>である--それはたほう同様に普遍的なものなのだ。 (下巻 122)

ちなみに、イポリットはここに注釈40と41をつけている。せっかくなので載せておこう。

40. <Existenz. > Le langage n'est plus seulement la forme d'expression de l'essence; il est l'existence même de l'esprit. Dans le langage en effet s'accomplit le passage du singulier à l'universel, l'aliénation spirituelle. La première partie de ce chapitre était l'aliénation del'être-là naturel; la seconde est l'aliénation du Soi se posant dans la conscience de soi universelle comme langage.

41. Sur ce genre d'expression du Moi, cf. Phenomenologie, t. 1, p. 260.

あんまり自信ないけどざっくり訳しとこう。

40|「実存」。言語は決して単なる本質の表現形態ではない。それは精神の実存そのものなのである。じっさい言語において、個別的なものから普遍的なものへの通過、すなわち精神の外化が成し遂げられる。この章の第一部は自然的な現存在の外化だった。第二部は、言語としての普遍的な自己意識のうちに自らを定立する<自己>の外化なのである。

41|この種の<自我>の表現については、『現象学』第一巻260頁を参照。

 注41は理性章の人相術の話。注40はけっこう大事なことを言っていて、言語とは精神の実存である、意識の外化であると言われている。

 さてしかし、われわれが読んでいる『論理と実存』では、こうしたヘーゲルの記述が実存についての記述であるとは言われていない。とはいえもちろん、イポリットが実存のことを考えていないわけではない。

人間の話法は存在の話法であると同時に、普遍的自己意識の話法でもなければならない。そのことは普遍的商人の、すなわちこの自我であると同時にすべての自我でもあるような知的話法の、可能性を含んでいる。もちろん、承認の問題はヘーゲルの著作において直ちに解決されるわけではない。暴力とか、自己を伝達することの軽蔑、すなわち偉ぶった拒絶とか、それどころかすべての伝達に対する無力感とかが、つねに起こりうる。(19-20)

[I]l faut que le discours humain soit à la fois le discours de l'être et le discours d'une conscience de soi universelle. Cela implique la possibilité d'une reconnaissance universelle, d'un discours intelligible qui soit à la fois ce moi-ci et tous les moi. Certes, le problème de la reconnaissance ne se résout pas immédiatement dans l'œuvre hégélienne. La violence est toujours possible ou le dédain, le refus hautain de se communiquer, ou même le sentiment de l'impuissance à toute communication. (11)

どうやらイポリットとしては、わたしがわたしとして言葉を語り、それが普遍的なものを目指すたび、承認されるかどうかをめぐって争いごとが起こると考えたいようだ。自分自身の感覚に閉じこもるのではなく、社会の中で対話として言語を発せよ。これがヘーゲルの立場だと、イポリットは思っているようである。

 

 疲れたので、いったんこのへんで。ふう。