ふつうのおたくの日記

漫画と『ブルーアーカイブ』のことを中心に、ゆるゆると書きます。

マクダウェル、神崎繁、ピピン

 マクダウェル読むくぁ、と思って『心と世界』を読み、むーん、と思いつつピンとこないところがあったので神崎繁先生の解説を先に読む。

 これは凄い!本当にすごい。

 わたしがみたい「留まるヘーゲル」がここにある。単なる概念実在論ではなく、しかしてカントではなく、「信仰と知」のヘーゲル的カント主義の可能性。構想力と経験の場。これ、これ、これ!奇跡のような解説だ。わたしが出したいピピン、まさにこれなんだよな。じゃあ別にマクダウェルでもいいじゃないかって?いやいや、でも、マクダウェルだと経験の社会的媒介性がみえないから。これがだから、荒畑先生がハイデガーに即してマクダウェルにいうところであり、神崎先生が日本の前提というところではないか。変容する規範性をハイデガーに押し込めないかな。

 

 ピピン。さっそくハーバーマス批判を読む。手癖で喋ったことがだいたい合ってて良かった。ハーバーマスが混沌のモデルネの場として考える生活世界が既にして規範性の場であるというピピンの批判は、経験なるものが既に概念の場でもあるというマクダウェルの立場を彷彿とさせる。であれば、モデルネの場所はどこか。それは存在論の手前にある。

 ハーバーマスヘーゲル左派への批判はかなり重要だと思う。前存在論的なものを美的なものへとまとめるピピンの手つきは、芸術批評としてはカント主義か。すなわち、アプリオリな知識はもたらさないが……いや待て?ピピンヘーゲルのカント批判、すなわち主観的にすぎないものではない知識を美的経験に求めていたでは無いか?とすればエステティズムとは、やはり1個の病である……

ピピン、ブルアカウエハース、デリダ

 発表おわり。つかれたー。

 もうちょっといろいろたくさん詰めなあかんところはあるけれど、まあこんなもんかなーと個人的には思う。カント、ヘーゲルハイデガーニーチェボードレールジラール、このへん基本に置きつつぼちぼち決めていく感じで進めたい。

 それとなるほろと思ったのは、わたしが擁護したいのは近代の規範性ではなくて美的モデルネだったのねえ。うーん、自覚していなかった。でもそれならよくわかるな。穴、裂け目。モデルニテ。

 あまりに疲れたのでコンビニで再びブルアカウエハースを買った。セナとアロナ。アロナの箔押しがうつくしい。

 

 いよいよデリダの『絵葉書』とりわけ「真理の配達人」の読書会が始まる。真理が配達されるぞ!と思いながら読んでいるが、なかなか配達されない。ところでこの機にフランス語をちょっと真面目に勉強しようかしらん…と思いつつ、でも正直時間ないので無理かなとも思う。まあ、ぼちぼち。

ラカン、イポリット

 いや、疲れた。。。

 わたくし、明日研究発表しないといけないんだけど、19:00-20:30でラカンについて英語で90分フルで議論、20:30-23:00でイポリットについて議論、とか、よくわかんないことをやっていた。

 

 ラカンセミネール3巻の『精神病』。英語でざくざく話すのでざくざく図式化していくのだが、ラカンにおけるクレランボーヤスパースという対立は面白いかもしれない。ドイツ対フランス、というか。

 ていうか、いま自分で書いていてびっくりしたのだけれど、わたし90分間フルで英語で喋ったのか。記憶が正しければ、けっこうがっつり喋ったよ。我ながら、やる〜

 

 イポリットは『論理と実存』。ヘーゲル読んでるひとがあまりいないっぽいので、ひとまず責務として喋る。でもわたしだってヘーゲル研究者じゃないし、ぶっちゃけ『論理学』なんてほぼ読んでいないのだが…

 まあまあ、でも、大真面目に現代思想の文脈でヘーゲルについて喋るのは楽しいし、イポリット研究って将来的にやれたら楽しそうとも思うので、今後もやっていこうとは思う。

 レジュメ担当のnさんのレジュメは素晴らしかった。ヘーゲル・ロジックをこんなにちゃんと噛み砕けるのは本当にすごい。たぶんわたしはできない。くわえて、「宗教をディスクールとして抑える」という話は、ああ、フーコーだとそう読めるのかと思い、たいへん興味深く感じた。ディスクールねえ、ヘーゲルの哲学はディスクールの哲学と言えるのかしらん。。。

MZM, or ethics of otaku

 最近また久しぶりにMZMを見始めている。以前もみたけれど、これ。

 

 わたしがMZMとコーサカさんのことをそれなりに好きであるということを踏まえたうえで聞いてほしいのだが、わたしはコーサカさんがここで言っている「ヲ」の重みというというのは、必ずしも「誰かが傷つくかもしれないと思って気を遣う」ということである必要はないと思っている。むしろ反対に、「誰かが傷つくかもしれないけれど発言を行い、かつ、その発言に責任を持つこと」だと思っている。「ヲ」の重みとは責任の重さであって、それは責任が問われるような重い発言に伴うものだと思っている。*1

 

 これは一般論だけれども、わたしは気を遣うことも優しくすることも友達をもつことも、全体的に嫌いだ。それらのことが重要であることは事実だけれども、最も重要なことは己の欲望に他ならないのであって、他者と仲良くすることではない、と思う。

 

 

 「友だち同士でやるのが1番いいッス…」半分わかる。楽しいことを共有できるひとはゼロでなくてもいいが、多くなくていい。けれど、それが友達である必要はあるのか、とも思ってしまう。

 もっとも、そのコーサカさんの交友関係の広さをコンテンツとして消費することに快楽を覚える人間であることもまた事実であり、コーサカさんが他者に譲歩しない自分自身の拘りを持っていることも知っているから、単に言葉の違いでしかないのかもしれない、と思う。とはいえ。

*1:うな重!?!?

ヘーゲル、ラカン

 精神現象学を読む読む。Materieをなぜかひたすら「マテリー」と読んでいたことに終わったあとに気づく。なぜ…?フランス語だとマチエールだし、英語だとマテリアルなので、なぜマテリーなのか…?

 

 終わったあとに、アキバに行った話をした。「いいですね、面白そう」と反応を頂いたので、「いや全然!やらない方がいいです!ブルアカは面白くない!やっちゃ駄目!」と意味不明なムーブをしてしまった。無限にブルアカを褒めたあとに無限に否定する感じ、まさにおたくムーブ。

ヘーゲル、フロイト、ラカン、バトラー

 昨日は午後5時から午後10時くらいまでぶっ通しで喋ったので、疲れた。

 ええと、

 

 『精神現象学』のレジュメについてコメントを求められる。ほとんど問題なく、むしろ明晰にまとまった素晴らしいレジュメだと思ったので、その旨をコメントする。理性章の実験のところ。へーゲリアン・ロジックが少しづつ分かってきた感じがする。

 

 そのあとは『夢判断』の読書会。今日は7章のCとD。予習不十分で上手く発言できず、申し訳なく思う。精神病の幻覚と境を接するものとしてフロイトが夢をとっているのは面白く、ラカンがそれを敢えて無視して神経症の話として『四基本概念』では論じようとしているのが、バトラーや後期ラカンとの関係から考えて面白い。

 

 『夢判断』の予習が十分に出来なかったのは、『アンコール』について質問されたりしていたから(それだけではないが)。他者の享楽って愛じゃないらしいよ…という。謎めいている。

 

 〆はバトラー。ニーチェの話をしたり、スピノザのコナトゥスの話をしたりした。少しづつバトラーが参照している哲学史の景色がみえてくる。

 

 そんなことを考えながら寝て起きたら、ヘーゲルラカンの差異について質問するメールが来ていたので、返信を書いてみた。昨日今日といろいろ繋がってて楽しいですな。

れんしう⑤

 こんなことをやっている場合では正直ないのだが、まあ、ええや。やるしかない。

 

 棒立ちばかり描いていて飽きてきたので、以下のページを参考して、姿勢を変えてみた。

 

 丸描いて繋いで、丸描いて繋いで、こんな感じ。

 あ、でも、棒立ちのときとやっぱり全然違うなーと思う。

 手足、関節、このあたりの描き方がなかなか理解できていないが、ともあれ、少しづつ。

 

 ブルアカや萌えコンテンツにわたしがハマるのはとどのつまり可愛い女の子を欲望しているからであって、それを解消するためには好きなひとと一緒にいるか自分で女の子を作るかの二択なのだけれど、好きなひとはもうどこかへ行ってしまったので、わたしは自分で絵を描いている。