ふつうのおたくの日記

漫画と『ブルーアーカイブ』のことを中心に、ゆるゆると書きます。

論理的実存主義?

 イポリットとピピンを並行して読むと、両者がかなり似ていることに気がつく。すなわち、統覚の承認論的拡張というピピンのラインと、私のディスクールにおけるロゴスの顕現というイポリットのラインとが、ということだ。ピピンはカントから出発して広がり、イポリットは語り得ぬものから出発して広がる。

 どうだろう?イポリットにおける詩は、おそらく語る私の目から見たものだが、ピピンにおける芸術は?これは面白いかもしれない。

 ただイポリットはあまりカントについては述べない。むしろ語りにおけるハイデガー的実存のことを言う。これはピピンと違い、ピピン以上に楽しいところ。ただ言語への特権が生じる。イメージについてはピピンに一日の長があるーーすなわち、私という意識のサイズの成立のこと。

 カント、ヘーゲルハイデガーを並行させながら、ピピンとイポリットを調停すること。これって、たぶんわたしの哲学の課題じゃないかな。

 

 

 もうちょっと詰めたことを書いておくか。ピピンがモデルとして置いているのは、規則に従うという場面である。「よろしい、規則(純粋悟性概念)はあるだろう。」しかし、では、「なぜその規則に従うのか?」カントは構想力を持ち出すが、それは何か、ということが問題となる。中野のように、あるいは、構想力を「無媒介的な直接的統一」のコアとして持ち出してもいいかもしれない。しかしそうなると問題はこうである。なぜ構想力はあるのか?悟性なら分かるかもしれない。超越論的演繹によって、客観的妥当性をもつ命題を提示しようとするわけだから。しかし構想力はなぜ出てくるのか?

 ここでヘーゲルの「信仰と知」を参照すれば、構想力は推論的連結の一部である、ということになる。しかし推論的連結とは何か?ピピンはそれをセラーズに倣って理由の空間といったり、承認による社会的規範と言ったりするだろう。あるいは端的にロゴスと、そう言ってもよいかもしれない。

 ロゴス?しかしそういったとき、言語の問題が先鋭化する。構想力、推論、行為、規則の問題とは、結局、語る主体すなわち現存在の問題なのではないか?イポリットであればそう言うだろう。

 しかしそう述べたときに、理性の問題が均され、単なる技術の問題になってしまうのではないか。これはもしかするとアドルノの問題かもしれない。ともあれ。