強い博論本を2冊読む。
いずれも従来のカントとヘーゲルについての理解を刷新する快著だが、両者がいずれも「信仰と知」におけるヘーゲルのカント解釈を重視していること、そして構想力の概念を重視していること……これらのことを、わたしはどう理解すればよいだろうか?
個人的には、構想力に全てを預けてしまうことは何だか奇妙に思える。いやもちろん、単に構想力に全てを放り投げているわけではないことはよくよく承知しているのだが、そこで同時に働いている理性の働き、ないし、行為という問題をどう理解するか。これがわたし個人の関心である。
もうちょっと書くか。飯泉さんのピピン批判だと、自己意識章において意識の対象化=意識による反省は起こらない。理由を帰属させるような行為者性の話は自己意識章のなかにはない。これはピピンの議論にとってクリティカル。ピピンはやはり自己意識章において社会契約がいったんは成立すると思っているから。
ピピンの議論って、やっぱりヘーゲルそのものというよりむしろカントの延長線上に置いた方が良い気がする。ピピンはカントの構想力論を規則に従う行為の問題として読み、承認論はそのための理由を与えるものと理解している。
ただそのうえで、これはずるいかもしれないけれど、不完全な関係さえありえないという飯泉さんの解釈と、不完全な関係は一応あるよねというピピンの解釈は実質的にどれほど違うのか。いやでもたぶん、それが世界の生成の話になるんだよね。ピピンには無い話。こっちで戦うとどうなるやろ。