ふつうのおたくの日記

漫画と『ブルーアーカイブ』のことを中心に、ゆるゆると書きます。

「最寄りまでこのまま……」|ねっこについて

 好きなブルアカ二次創作シリーズ。前回のはこれ。

kyakunon.hatenablog.com

 

 「ねっこ」さんというイラストレーターがいる。別名義でYoutuberなどをされていて、その方面でも非常に有名な方だが、ここでは触れない。問題はねっこ氏が描いているブルアカの二次創作である。

 ねっこ氏のpixivに発表されているR18ジャンルの投稿を覗くと、ある一つの傾向がみてとれる。それは、<精液をヒロインに飲ませること>、すなわち精飲へのこだわりである。

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 いくつか例を挙げる。(なお、すべてR18のためはてなブログでは見れない…ぜひぜひ、ご本人のアカウントを訪れること。)

 例えば、マグカップ一杯に入った精液を飲むユウカ。

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 素朴な疑問として、どうやってマグカップ1杯分の精液を先生が用意したのかが気になる。1回の射精量が多いのか、複数回すぐに射精できるのか、あるいは一時的に保管しておいて、少しずつ溜めておいたのか。

 ただ、イラストをみるとまだ温かい(「ほかぁ…」という擬音がついている)ことから、おそらく短時間に大量に射精したのだと考えられる。そうなると、体力というよりむしろ、精液の分泌量の方が異常だということになるような気がするが、どうか。(あるいは、さすがにお湯で嵩増したのだろうか。それもありそう。)

 

 次に、精液を咀嚼するミヤコ。

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 ねっこ氏の解釈だと、ミヤコは先生の精液を自身の体内に取り込むことに異常な執着をみせているようだ。口淫を通じて射精を促し、その精液を口内で受け止める。その精液を咀嚼し、唾液が精液の味を薄めてしまうまで口の中に入れたままにしておく。

 何が彼女をそこまで精液に駆り立てるのかはよく分からないが、RABBIT小隊が自分たちのキャンプにシャワー室を持っておらず、風呂に入るためにはいちいちドラム缶で五右衛門風呂を作らないといけないことを考えると、なかなかミヤコの癖は壮絶である。RABBIT小隊のキャンプは、べったりと張り付いた精液の匂いで包まれることになってしまいそうだ。

 

 次。タピオカに精液を混ぜて飲むジュンコ。

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 これも精液を「美味しい」と言って口に入れる例だが、ミヤコとは異なり、食への関心からおこなっているようである。タピオカと精液という組み合わせは試したことがないのだが、本当に美味しいのだろうか?あるいは、美味の快楽に性的快楽が入り込んでいるのだが、ジュンコ本人はそのことに気が付いておらず、「なんでかよく分からないけれど、美味しい!」と思っていて、それを精液の食感のためだと誤解している、ということかもしれない。

 

 まだまだ幾らでもあるが、最後に、マグカップに入った精液を飲むカズサ。

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 「襲われちゃうよ、本当に」で有名なカズサだが、精液を進んで自分に飲ませようとする先生には、流石に呆れているようである。そういえばカズサは猫舌で、出来立てのフォンダンショコラを先生に「処理」させていたりした。精液がフォンダンショコラほど温かい(というか、熱い)ことは流石に有り得ないと思うが、カズサは温かいものが好きではなさそうだ。そんなカズサに温かいものを無理やり飲ませる(食べさせる)というのが、既に業の深さを感じる。いずれにせよ<卑しい>カズサをも寄せ付けない異常性欲の権化。それが先生なのだ。

 

 ともかくもねっこ氏の描くキヴォトス人は、先生の精液を飲み続ける。ときに嫌そうに、ときに嬉しそうに。けれどいずれにせよ、飲むときには画面にハートが飛び交っており、生徒は嬉しそうである。端的に奇妙である。なぜなのか?

 ひとまず、こう簡単に言うことはできるだろう。要するに男の暴力的なファンタジーである。普通に考えて、精飲が女性にとってそれ自体快楽であることはありえない。そもそも精液はおいしくないし、射精を促すために口を動かしていたら、顎が疲れることはあっても快楽を感じることは無い。口淫はあくまで性器的セックスの一部(前戯)か、あるいは、男性だけが快楽を得られる一方的な性行為としてしかありえない。精液を飲むだけで性的興奮を得る女性というのは、男性にとって都合のいいファンタジーに過ぎない。

 わたしとしては、この手の話に、ひとまず異論はない。まあ普通に考えて、精液を飲むという行為が得意なひとは多くないだろうし、ましてやそのことに快楽を感じるひとが先生の周りにたくさんいて、しかも全員先生のことが好きということは、どうにもありそうにない。

 けれど、「男」にとって都合のいいファンタジーは数多くある。「これはファンタジーだ」と言うだけでは、ではなぜこのファンタジーが他のファンタジーを退けて欲望の対象となり得るのか、ということは分からない。

 とはいえもちろん、わたしはねっこ氏のパーソナリティを存じないし、率直に申し上げると関心も無い(クリエイターへのリスペクトとしてご理解いただきたい)。ねっこ氏がどのような経緯で精飲に拘るようになったのかを、氏の経歴に照らして検討するつもりは無いし、そんなことはできない。

 わたしが関心を持つのは、作り出されたファンタジーの強度である。ファンタジーの「強度」とは、他のファンタジーを侵食し、破壊する、その程度のことだ。二次創作が一次創作を飛び越える程度と言ってもよいかもしれない。わたしは、そのジャンプの高さに注目したいと思う。

 そしてねっこ氏の作品の跳躍の高さを測る際にヒントとなりそうなのが、わたしが個人的にねっこ氏の最高傑作だと思っている作品、すなわち「ブルアカまとめ24(コユキ、ヒフミ他)」に収録されているヒフミのイラストである。

 

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 このヒフミを描いた作品は、全部で3枚のイラストからなっている。順に見ていこう。

 1枚目、最初からクライマックスである。ヒフミが電車のなかで口淫をおこない、先生が口内に射精する。始まりも過程も何もなく、いきなり射精の場面から始まる。そしてもちろんヒフミは、出された精液をごくごくと飲み込む。

 しかし2枚目、先生がヒフミの頭を抑えて、ヒフミの口を男性器から離さないようにする。キヴォトス人であるヒフミが、なぜ先生の頭を払いのけられないのか?という疑問は、ここでは措こう。いずれにせよヒフミは頭を抑えられ、精液を飲んだ姿勢と同じ姿勢を維持している。

 そして最後の3枚目、先生がヒフミの頭を掴んだまま、ヒフミは「……最寄りまで……このまま……」と言う。なんと、射精をしたあとの男性器を口で咥えたまま、最寄り駅までいよう、と言うのだ。幸せに包まれた2人を描いて、この作品は終わる。

 

 この作品はユニークだ。例えば、上で述べたようにミヤコなど、精液を口の中で溜めこんでおく生徒を描いた作品は、他にもある。しかしミヤコでさえ、精液を飲んだあとには、男性器から口を離している。ペニスを咥えていても、精液は出ないからだ。したがって、ヒフミが男性器を咥えている理由は、精液を飲むためではない。

 では、ヒフミが男性器そのものを咥えこんだまま、しばらく一緒にいるというこのシチュエーションは、いったい、どういうことを意味しているのだろうか?

 普通に考えれば、精液を放出したあとの男性器を咥え続けても(お互いに)仕方が無いわけだから、素朴に考えると、理不尽である。じっさい、わたしが確認した限り、ねっこ氏の作品の中で、先生が生徒に口淫を強いる作品はあっても、射精したあとにも継続的に咥え続けているように求めるシチュエーションを描いた作品は、これ以外にない。これは一体何なのか?

 例外的な作品を検討するための比較対象として、ここで「繋がったまま眠る」というシチュエーションを考えたい。すなわち、ベッドの上で男性器を女性器に挿入する性行為をおこなったあとで、男性器を抜かず挿入したまま、男女が眠りに就く、というシチュエーションである。このシチュエーションは、比較的よく知られているだろう。

 そしてわれわれの関心の対象となっているヒフミのイラストは、一見すると、このシチュエーションによく似ている。先生とヒフミが射精を終えたあとにすぐ離れてしまうのではなく、愛を確かめるように、あるいは惜しむように、繋がったままでいる点で、それは「繋がったまま寝る」の一変奏に過ぎないようにみえる。

 ただしこの作品は、一般的な「繋がったまま」のシチュエーションを、単に流用しているわけではない。

 とりわけ「電車」という舞台設定が巧みだ。一般的な「繋がったまま」のシチュエーションにおいて描かれているそれとは異なり、ヒフミは口で咥えたまま眠るわけにはいかない(そんなことをすれば、性器は口から零れてしまうか、あるいは歯に噛まれてしまうだろう)。ヒフミも先生も、ずっと起きたままである必要がある。

 しかし想像して見てほしいのだが、お互いの意識がはっきりした状態で一方が他方の性器を咥えたままぼーっと直立しているというのは、何だか間抜けだ(このシチュエーションがリビングの一室に移動されたらどうなるか、考えてみてほしい。気まずすぎて、いたたまれない!)。

 したがって、先生が性器を咥えさせた状態で立ったままいても、不自然だと思われない理由が必要となる。

 そこで電車だ。電車で目的地に向かうまで立ったままであることは、別に奇妙ではない。電車の中で立ちっぱなしでいることはごく自然であり、画になるとさえ言える。この点で電車という装置は、この奇妙な結合の時間を自然なものとして見せる機能を果たしている。

 更に電車という装置は、それが終わりを目指すものであるという点でも重要な意味を持つ。

 まず、比較対象である「繋がったまま」という状況が、一時の夢として、余韻としてのみ楽しまれることを確認しよう。ベッドが睡眠という一時のためだけに用意されているものであることからわかるように、ふつう、男性器と女性器は、離れた状態としてある。それが結合し完成するという状態は神話であり、あるいはファンタジーであって、一時の夢としてのみ味わわれる。

 口とペニスの繋がりも同じだ。素朴に考えて、口とペニスは日常的には離れており、繋がりそうにない。両者の結合はあくまで非日常的な事件であり、スキャンダルだ。あるいは、もっと単純に言えばこうである。顎が疲れる。あまりに長く口淫が続けられてしまうと、それはシチュエーションとしての説得力をやはり失う。これを「最寄り」までの電車という装置は回避することができる。

 ヒフミと先生の愛の確認が「最寄り」までの僅かな時間においてのみ成立することは、この点において認められなければならない。すなわち、それは立ち尽くす時間を正当化するのだが、その時間を緊張感を持った、有限なものとして正当化するのだ。

 こうしてわれわれは、ねっこ氏の作品において、電車が、口淫が口淫として愛を確かめられるための場所として、位置づけられていることに気づく。離さないこと、電車の中にいること、それが最寄り駅という目的地をもつこと。これらはすべて繋がっている。

 

 そしてこのことは、一般的な性規範にとってのみならず、『ブルーアーカイブ』にとってもスキャンダラスな帰結を導く。

 例えば、連邦生徒会長が先生と会話し、そこからブルアカの物語のいっさいが始まったのは、電車の中であった。象徴として読めば、電車という場所は、それがさまざまなところに走っていく中継地となるようなところであって、未だ現実化していない、可能性を意味している。思い出して欲しい。「あまねく奇跡の始発点」というアイデアは、電車のなかで語られていた。したがって電車という場所がこのような意味を持つことは、原作ゲームだけでなく、アニメ版においても踏襲されている、ブルアカの基本的な世界観と言ってよい。

 そしてねっこ氏の二次創作は、そのようなブルアカの基礎にかかわる場所である電車を、フェラチオをおこなうカップルの愛の巣として描き換える。電車は、ヒフミが男性器を口で咥え続けることができるという可能性の具現として変形されてしまう。

 この想像力が秘めた説得力を、わたしは楽しみたい。電車はどこにでも行ける。では、先生がヒフミに口淫させて離さない世界はあるだろうか?ねっこ氏の作品は「ある」と力強く述べる。では、この愛を乗せた電車は、どこに向かうのだろうか?その結末は、恐らく誰も知らない。わたしも知らない。ただ乗せられている電車の速度を、今はただ楽しんでいる。