ふつうのおたくの日記

漫画と『ブルーアーカイブ』のことを中心に、ゆるゆると書きます。

『ロバート・ピピンと映画』①

 

 

 ちょっと訳してみるか。半年後位に「ポストセオリーの文脈におけるピピンの映画論」とかやりたい。

 

 

イントロダクション:「俺はこの忌々しい映画を分かろうとしているだけだ」

 

 ロバート・ビュフォードピピンは1948年9月14日に生まれた。その際立ったアカデミック・キャリアを通じて、ピピンドイツ観念論とその余波という、恐ろしい領野に特化してきた。しかしながらここ10年ほど、かれはシネマに関心を持ち続け、映画について五冊の本を公刊した。『ハリウッド西部劇とアメリカの神話』(2010)、『アメリカのフィルム・ノワールにおける運命論』(2012)、『哲学的ヒッチコック』(2017)、『映画化された思考』(2020)、そして『ダグラス・シャーク』(2021)である。ピピンの映画についての書き物はここの映画の注意深い読解を、哲学と映画の関係に対する独自のアプローチと併せている。それは、ピピンの極めて豊かな哲学によって伝えられているものの、明晰さに対する賞賛すべき態度をもって表現されている。この仕事のほとんどは、いまだ、フィルムスタディーズと映画哲学の広い領域に対する限られた影響のみを有している。『ロバート・ピピンと映画』はこれが不幸なことであると主張し、ピピンの映画についての書き物が示そうとしているものの本性とその価値を分節化しようと試みている。わたしは個人的には、シネマについてのピピンの仕事が映画の哲学的研究にとって中心的なものとして広く考えられれば、それはよいことであると信じている。しかしながら、こうした条件を想像することが難しいということを踏まえれば、この本は少なくとも以下のことを示そうと試みている。すなわち、それが究極的にはこれらの分野のなかでどのような位置を占めるようになるとしても、ピピンの映画についての仕事は周縁化されるべきではないということだ。

 

理論と哲学

 

 ピピンの仕事の大半は、哲学史にかかわるものだ。かれのキャリアの大半は正典的な哲学者の書き物を解釈することにささげられており、主にはゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルを含んでいる。この仕事は、しかしながら、学者的な衒学趣味と独自の哲学的思考の差異についてわれわれがもっていたかもしれない偏見を転覆する。ピピンが示すのは、テクスト的かつ歴史的に厳密な分析は、レイモン・ゴイスがピピンの最初の仕事について書いたように、「真に哲学的」(1989: back cover)であるということだ。この仕事は『ヘーゲルの観念論』と呼ばれる本であって、ヘーゲルの思想が「蒙昧主義者ではなく、伝統的にそう考えられてきたよりも哲学的に面白いものである」(ibid: 11)ような解釈を擁護するものである。影響を与えたそして論争的な哲学者であるリチャード・ローティによれば、

 

 オリジナリティと大胆さの点において、ピピンは【スタンリー】カヴェルと比較しうる。カヴェルのオースティンとヴィトゲンシュタインの読解は、いずれも他の何ものとも異なっており、近代哲学の物語を語り直すというプロジェクトの一部である。ピピンのカントとヘーゲルの読解も同じようにオリジナルであって、似たような規模だと考えられるプロジェクトの一部を形成している。(Rorty 2002: 354)*1

 

 他方で、批判者たちにとって、ピピンの「プロジェクト」は、ヘーゲルをあまりにカント的にしている。例えばピーター・オズボーンは、ピピンの「一面的なカント的ヘーゲル主義」(2013: 21)*2に言及している。ピピンが転覆している別の区別は、「分析的」と「大陸的」哲学の間にある区別である。ローティが指摘するように、ピピンは「ほとんどの現代のアングロフォンの道徳哲学の種を横切ることにためらいがない。しかし彼のアプローチはほとんどのいわゆる「大陸哲学」からも大きくかけ離れている」(2002: 354)。ピピンの明晰さと主張に関する身長差は、前者を示唆しているーー確かにピピンは哲学者ロバート・ブランダムが「基礎的な分析的素養ーー理由づけられた主張への信、希望、そして明晰さ」(2002)と呼ぶものにコミットしている。そしてしかし彼の試行の中心的な形象、つまりヘーゲルは、しばしば2つの伝統の間の分裂の象徴としてみられている。じっさい、「分析的伝統の創世記は、その同一性が、ヘーゲル思想の深みとは対立して練り上げられたとみなされている」(Lumsden 2011: 89)。

 しかしながら、この蔽い難い知的分裂にもかかわらず、ピピンはかつてアルフレッド・ヒッチコックの『めまい』んいついての本の中で次のように述べていた。自分は「この忌々しい映画を分かろうとしているだけだ」(2017b)と。こうした発言は何を意味しているのか?ヘーゲルの議論に人生の多くの捧げてきた人間から考えると、抽象的な思考に敵意を示すことは考えにくい。もしかして、映画についての思考は、単にピピンにとっては、『精神現象学』や『論理学』に取り組んだ後のちょっとした安らぎなのだろうか?逆だ。コリン・マックギンは「哲学的思考の後の「無心の映画」ほど楽しいものはない」(McGinn 2005: 136)といったが、ピピンはそうではない。とはいえ、われわれがみていくように、ピピンは、映画への哲学的アプローチは、映画についての理論を構築することとは全く異なる何かでありうると信じているようだ。この点において、ピピンの仕事は「日常言語哲学」として言及されるものの映画哲学にとっての有用さに関する近年のアンドリュー・クレヴァンの主張と共鳴するところがある。わたしが思うに、ピピンはクレヴァンの次の主張に同意するはずだ。哲学は「映画批評と連続的でありえ」、「哲学は映画理論と連続的であるという一般的な前提」とは対立する(Krevan 2020: 34, n. 48)*3ヘーゲルのような哲学者に対するピピンの読解が、かれの映画についての仕事を示すその仕方は、哲学の理論的な形態が有用にも映画に対する非理論的なアプローチを伝えることができる仕方を示している。(クレヴァンの「もしわれわれが映画を哲学的に、しかし非理論的に研究することを望むのであれば、われわれが理論的でない哲学の中で実践していることに目を向けることを助言する」(2020: 1)という言葉とは反対に。)わたしが望むのは、これが意味するものがこの本の道筋を通じて明らかになっていくことである。

 そして(哲学の映画に対する、というよりも)映画の哲学に対する相関性とは何か?ピピンは記している。いまや、かれは以下の前提についての同意を予想することができると確信している。すなわち、

 

 「ハリウッド映画」が、芸術作品と同じように注意深い注目に値するかどうかという問題をめぐる戦いは、ハリウッドの側に位置づけられてきた。また、こうした見方は、何等かの理論にコミットすることなく、何等かの映画理論にコミットすることなく、持たれうるのである。(Pippin 2010a: 159, n.13)*4

 

 わたしは『ロバート・ピピンと映画』を通じてこの立場の合理性と帰結を検討したいけれども、この態度によって強く印象付けられるピピンの映画論の直接的に明らかな側面は、これが映画哲学の他の形態を興味深いものとする芸術の観点をもっておきかえないとはいえ、具体的な映画に「応用」される哲学的概念の過剰を含んでいるわけでもない。これはピピンが、かれが批判的に個別的な映画に取り組む仕方をそれ自身哲学的であると考えるためである。同様に、この本が目指すのは、可能な限り多くの時間個別的な映画を気にとめておくことである。しかし、映画について書くときにするよりも純粋に哲学的な仕事に細かく言及することをもってピピンの読解の文脈の幾らかを埋めるつもりだ。『映画化された思考』の最初の章における発言で、ピピンはこう言っている。その「主要な約束はヘーゲル的である」、これは非常にふつうではない。本の残りは、脚注を除くと、わずか5回のヘーゲルへの言及しか含んでいない(Pippin 2020a: 9)。そして、より詳細に哲学的背景に取り組む中で、わたしの実践は、ピピン自身による事象についての進め方とわずかに矛盾するだろう。しかしながら、ピピンの提示の明晰さが意味するのは、彼の観念のアプローチ可能な提示を提供することを誰かにとってより簡単にする必要はない。ピピンが暗黙的に許していることをより明示的にもたらすために、かれの映画についての書き物を検討することは、書いているものの位置とその別の作品を示すために有用である。2,3の概念が重視される。「モダニズム」、「自立性」、「規範性」、「統覚」、これらすべてが一緒くたになっている。しかし以下のことは強調されるべきだ。すなわち、そうした素材は有用であっも、厳密な意味で必要ということではまったくない。暗い図書館で凝視することに費やした10年の益を除いて哲学的に映画にアプローチすることができないとピピンが考えていると考えると、ヘーゲルは不運な方向性であろう。

 以下、わたしはピピンの最初の三冊の本、つまりウェスタン、フィルムノワール、『めまい』についての諸冊をカバーすることになる。

 

 いったんここまで。

*1:Rorty 2002は、ピピンヘンリー・ジェイムズ論についてのコメント。気になるのだが、オープンアクセスではない。。。

*2:Osborne 2013というのは、Radical Philosophy誌に入っている「すべてのもの以上:ジジェクバディウヘーゲル」という論文で、書いてある通りジジェクのLess Than Nothingの話である。この論文は面白くて、ジジェクのLess Than Nothingにおけるシェリング読解には3つの鍵があると述べている(21頁)。まず、ヘーゲルラカンを読み直すこと。次に、ドイツ観念論を読み直すこと。最後に、弁証法唯物論を組み立てること。いずれも厄介な課題だが、2つ目の課題の論敵がヘンリッヒと、それからピピンの「カント的ヘーゲル主義」だと言われている

*3:Andrew Klevanは映画研究者で、近年はヴィトゲンシュタイン研究に基づく理論なしの映画批評を構想しているようだ。引用されているのは注釈のところ。とはいえ、カヴェルの言とされているものに乗っかっているだけなのだが

*4:Hollywood Westerns and American Mythの一節。ちなみにカヴェルがレファレンスされている。