某氏へのメールの返信を書いていたところ、中江兆民という名前が出てきた。たしかに、ルソー→カント→ヘーゲルというラインを強調するわたしの立場が、中江兆民の議論を評価しなければならないというのは自然だ。残念ながら兆民の原文が手もとに無いので、ひとまず『近代思想案内』をざっと捲ってみる。
たとえば。
こうした議論の立て方に、根源的で普遍的な価値を求めようとする姿勢が窺われます。こんな姿勢が、兆民の議論を、文体を含めていわゆる通俗とは遠いものとしました。その意味で彼は、「理」=論理・原理を追求しつづけました。「哲学」という訳語がほぼ定着したなかで、philosophieをあえて「理学」としたところにも、そのような態度の一端が示されています。
「理学」という表現はphilosophieの訳語としては微妙であるような気がするが、志には深く共感する。原理的であること。形式であること。このことを動乱の日本において自らの人生として生ききることは、とはいえ、端的に想像を超えている。そのラディカリズムが幸徳秋水の社会主義をうみ、極左の思想をうんだということは、思想史上の興味深い事実だ。
そんなことを考えていたら、長崎さんの兆民論を発見した。
気になる。。。
日本思想編その二。今日は小林秀雄と柄谷行人、加藤典洋の話をした。小林、江藤淳、柄谷行人は何となく勘があるのだが、いわゆるニューアカデミズム成立以前の文芸批評がほとんど分からない。東浩紀の衝撃から30年が経ち、批評そのものがサブカル化した状況において、批評という事態の成立が歴史化される必要があるはずだ。それも今後やっていきたい。まずは、加藤典洋を読むところから。