ふつうのおたくの日記

漫画と『ブルーアーカイブ』のことを中心に、ゆるゆると書きます。

パスティーシュとしてのおたく文化は可能か 一般的知性を巡るマイクロポリティクスのために

 

 

 古典的なところから始めよう。かつてアンリ・ベルクソンは喜劇的なものにおける笑いを共感的なものではなく、むしろ知性的なものとして捉えた。

無関心な傍観者として生に臨んでみてほしい。そうすれば、たくさんのドラマが喜劇に転ずることだろう。人が踊っているサロンで、音楽の音に耳をふさぐだけで十分だ。踊っている人たちがたちまち笑えるものにみえてくる。(…)要するに、おかしさは、その効果を発揮するために、心情[心臓]に瞬間的に麻酔をかけるような何ものかを必要とするということだ。おかしさは純粋知性に訴えかけるのである。(24-25)

人間の日常的な生は、それ自体滑稽である。けれどもわれわれは、その生に共感力をもって臨んでいるから、その生を笑うことがない。けれども芸術は一般に、キャラクターから離れて、無関心に眺められる。

 けれども、それは単なる一方的な眼差しではありえない。喜劇は社会に奉仕し、社会の滑らかな運動を維持形成するという集合的な機能に奉仕するからだ。そしてこの点において、喜劇は芸術と自然の中間にある。

 こう言っていいだろうか。喜劇は、われわれにわれわれの生を、再認させる--ベルクソンは無意識の教育ともいう--ための道具なのである。

 喜劇的人物がもつイデオロギー的な性質。ベルクソンがそれを意図していたかどうかはともかくとして、事態はそれを語っている。そこに亀裂を置くことは可能だろうか?イデオロギーとその再認の間に亀裂を置くことは?

 

 

 

 

 ジュディス・バトラーは『ジェンダー・トラブル』において、フレドリック・ジェイムソンのパロディ/パスティーシュ概念に独自の含意を与える。ジェイムソン本人は両者の関係を時代的なものとして理解したが、バトラーは存在論的なものとして解釈する。すなわち、パロディーは実体を保証するもの、パスティーシュは実体が無いこと。こう解したのである。喜劇的なものの絶対的な否定性を確認すること、と言ってもいいかもしれない。

 バトラーのパスティーシュ論をベルクソン解釈に流し込んでみよう。バトラーによれば、一般知性なるものは実在しない。それは事後的にあることにされたものである。「無意識の教育」という表現はそれにぴったりだ。一般的知性は喜劇的なものを笑うことにおいて規範が引用されて承認され、それによって強化される。反対に言えば、その承認をめぐる弁証法的なポリティクスがそこには存在する。

 

 集合的記憶論としてのサブカルチャー研究は、こうしたポリティクスにおいて検討される必要があるだろう。それは規範の承認を巡るパフォーマティヴな争いである。

 一例を挙げる。日本のおたく文化においてしばしば指摘されていたのは、それが家父長制的な日本の男女関係の反復であるという指摘であった。それは典型的な異性愛をゲームのなかで再現しており、その点において男性性の軛から自由ではない、という指摘である。

 もちろん、自由ではないということについて、同意しよう。おたくのほとんど多くが典型的な異性愛男性であり、popsicleであり、Carifornia Gurlsである。それはそうだ。けれどもおたくは同時に、それであることができないこと、あるいは、それが虚構であることにおいてのみ成立していることをも、理解していたのではないか。東浩紀の並行世界論、ゼロ年代論には、そうした痕跡がたしかに見受けられる。

 

 

 

 その一方で、たとえば、『ブルーアーカイブ』はどうだろうか。『ブルーアーカイブ』のプレナパテス戦において明かされるのは、先生が自分自身の命や尊厳を投げ打ってもキャラクターを維持しようとする試みであって、そこにはキャラクターが自分自身の所有を超えることを、うまく言えてないのではないか。そこに選択は存在しないのではないか。

 いや、そうではないはずだ。自分自身の命を投げ打ってまで生徒を守るのが先生の欲望であれば、二次創作の自由が、抵抗がそこにあると言えるのではないか。もちろんそれは、イデオロギーの承認との微妙な関係において記述されるはずがある。

 ざっくり言って、外湯氏について書いたとき、わたしが考えていたことはそういうことだったと思う。

kyakunon.hatenablog.com