ふつうのおたくの日記

漫画と『ブルーアーカイブ』のことを中心に、ゆるゆると書きます。

『意識と我々』、「啓蒙とは何か」

 飯泉さんの『意識と我々』を読み、問題はフーコー「啓蒙とは何か」だとあたりをつける。

 フーコーの該当論文がいま手元にないので二次文献をざっと読んだだけだが、ボードレールとカントを重ねているのか。ロマン主義的想像力とは異なるモデルニテの想像力を、カントにおける啓蒙のプロジェクトと重ねると。

 これはひょっとして、わたしが言いたいことのほぼ全てかもしれない。そうなんだよね、重点は常に現在にある。けれどそれだと、ピピン的には不十分だとも思う。それだと重層性がみえない。ここでヘーゲルが出てくる。ただ重層性とは、要するに歴史のことではないか……

 いずれにせよ本格的な検討が必要なテキストだと思う。発表までに詰めておこう。

 

 関連して、重要そうな論文いくつか。

Foucault and the critical tradition
Kory P Schaff
Human Studies 25 (3), 323-332, 2002

Heideggerean Postmodernism and Metaphysical Politics
Robert B Pippin
European Journal of Philosophy 4 (1), 17-37, 1996

 

Aufklärung et modernité philosophique : Foucault entre Kant et Hegel
Franck Fischbach

 ↑これ飯泉本で引用されていて、原稿が収録されている本が全文公開されていた(ebooksらしい)のでざーっと読んだところめちゃんこ面白く、フーコーをカント的な啓蒙への合意とヘーゲル的な止揚の間に置き、啓蒙とモダニティにおけるアクチュアリティ主義者(actualistというべきか)として論じている。著者のwikiがあったのでみてみたら、ドイツ観念論プロパーらしく、ヘーゲルシェリングの翻訳やらヘーゲル左派と経哲草稿の翻訳やら、ごつい仕事がぼろぼろ出てくる。なるほど、ゲルマニストか。納得。

 フーコー啓蒙主義を端的に言うと、病者であることに留まること、と言って良いかもしれない。それはボードレールでもあるわけだが。

 ただ病者というメタファー自体が難しい。病気であることをどのように生きるべきか。