ふつうのおたくの日記

漫画と『ブルーアーカイブ』のことを中心に、ゆるゆると書きます。

イブキ、すき

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 メール何通か溜めてるの気づいてます、すみません、これだけ書かせて。

 今日一日ずっと寝ていて、ようやく頭が回ってきたんですよ。

 

 うすうす気づいていたけれど、最近の<二次元の><虚構の>(超重要!)趣味が、かなり幼い寄りになってきた。三森マツリさん、空﨑ヒナさん、と好きになってきたあたりで、む?とは思っていたのだが、丹花イブキさんに心惹かれている自分に気づいたことで、いよいよ自覚した。この手の子、わたし好きになっちまう。

 

 けれど、だからこそなのかもしれないが、わたしはしぐれういさんの「粛聖!! ロリ神レクイエム☆」は好きじゃないし、これがバズって「ロリ」が安易なネタとして使いまわされていることに若干かなりいらいらしている。

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 なんだろう、わたしにとってセクシュアリティの問題は、高度に人生にかかわる問題である。それはさまざまな意味での<苦痛>に関わりながら、しかしそれにも関わらず求められるものとしての<享楽>に通じているからだ。

 享楽の端正な定義としては、立木康介の以下。

病がもたらす享楽(ラカンにおいて、「享楽」とは本来、苦痛として快の彼岸で生きられる経験を指す)の炎に、実際に息子が身を焼かれていたとき、父親は自分自身の安逸な享楽にかまけていたために、その炎を見逃し、息子を救えなかった--という経緯を想像することはたやすい。いずれにせよ、「お父さんには見えないの?ぼくは火に焼かれているんだよ!」という言葉は、臨終の間際にキリストが発したという「Eli, Eli, lema sabachthani (わが神、わが神、なにゆえ我を見棄て給いしか)」を想起させる。ただし、このように考えるとき、問われるべきなのは息子の享楽ではなく、それにたいして父親の目を閉ざさせている父親自身の享楽のほうである。自らの享楽に囚われている父親の目を覚まさせるのは、いつも子供の呼び声なのだ。父親とは、もしかすると、自らの享楽から自力で目覚めることのできない存在なのかもしれない。【『ラカン』419頁。強調は引用者】

立木の文章は、さして読みやすいものではない。というのは、炎が享楽であると言った瞬間に<安逸な享楽>という表現が出て父の問題に移り、そうしてキリストの問題へと直ちに接続させられるからである。とはいえ、我われの文脈としては、ひとまず以下のことを抑えよう。セクシュアリティは<享楽>に通じる。享楽とは不快である。したがって、ぬるぬる動いて飲みやすい<ロリ>など、言語道断、だんごどうだい、だ。

 むろん、わたしとてマッチョなことを言いたいわけではない。アニメーションのラディカルネスについても、それなりにわかっているつもりだ(e.g. トーマス・ラマール『アニメ・マシーン』)。けれどもやはり、わたしはメディアでも社会でもなく、<精神>の、あるいは、<主体>の話をしたい。あなたが、何を望むかという話をしたいのだ。

 話を戻すと、わたしにとって丹花イブキを好きであるということは様々に困難があることだ。一方で、幼児性愛、性暴力、女性表象、抑圧。他方で、フィクトセクシュアル、マスキュリニティ、サブカルチャー。あるいは、親不孝、気持ち悪さ、安楽。これらすべてのいっさいから離れたいと思いつつ、わたしは離れることができない--それが世界の中に住み込み、世界の中で何かを語るということだから。だからふつう、語ることは拒否される。<精神>の話をしたいなんて言うことは、やめたほうがいい。いろんな意味で。語ることそのものが快楽に転じてしまうおそれがあるから。

 だから語りは、快楽を破るものである必要がある。<正義>でもなければ<趣味>でもなく、もちろん<性的満足>でもない。それは不快を目指す享楽である必要がある。

 しかし不快とはなんだろう。さしあたり言葉としては、それは快の欠如、快でないことである。

 興味深いことに、フロイト本人はむしろ、不快を緊張の持続として定義し、快を反対に、緊張の消失として定義していた。つまり快の方が不快の欠如であった。

 緊張とは何か。一方でそれはリズムである。他方でそれは、歪なリズムである。自分自身が絶えず引き千切られる経験を伴いながら、他方で絶えず復活もする、そのようなリズムである。

 わたしが思い出すのは、『血界戦線』でチェインと飲み比べをしていたチンピラである。彼は「心臓の音がうるさい」と言っていた。ふつう、心臓の音というのは生命のリズムであるはずだ。それがここでは不快なもの、むしろ死を告げ知らせるものとして鳴っている。あるいは、やかましい音楽。これも心地よい音とは対極的に、体を突き刺す音だ。けれども単なるノイズではない……

 わたしが音madを好ましく思う理由もそこにある。音madは、別に心地よくない。奇妙だ。けれどもそれは、単なるノイズではない。例えば。

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 この動画の中では、イブキの可愛い可愛いお声は、無理矢理に調整されて『オーバーライド』に重ねられている。それは不格好で、歪だ。けれどもそれは、単なるノイズではない。わけのわからないリズムとして展開されている。だから愛おしい。

 わたしが語る言葉は、こうした、音madと比肩しうる言葉でなければならない。それは単なるカオスではない。けれども、美しくもない。音<MAD>という表現は、いったい、何の符号なのだろう?