ふつうのおたくの日記

漫画と『ブルーアーカイブ』のことを中心に、ゆるゆると書きます。

まとまらないことをもろもろ

 わたしは精神分析を受けようと思って、ときどき分析家の個人ホームページをみたりすることがある。そこには色々書いてあって、金がないわたしにとってとりわけネックになるのは料金なのだが、親切にも「クライアントの事情に合わせます」と書いてあるところもあったりする。

 ただ、結局いつもオフィスを訪れることをわたしがやめてしまうのは、わたしが自分で明確な「症状」があることを自認していないからだ。わたしの知り合いには何人か精神分析を受けているひとがいるのだけれども、かれらは実生活で明確に困っており、精神科医から服薬の処方を受けている。それでも治りきらないから分析家のオフィスを訪ねた、というひとばかりだ。

 それに比べると、わたしは「健康」そのものである。もちろん、個人的に言いたいことは色々ある。俺はめちゃくちゃな人間なんだとか、クレイジーな人間なんだとか、言うたりたいこともある。けれども、それはあくまでわたしの願望であって、わたしは統合失調症でも強迫性障害でもない。少なくともその症状を発症していないし、周囲にもそのように考えられていない。(だからわたしはメタファーとして精神疾患を使っているひとをみると、ちょっとむっとする。あなた、本当に「気の狂った」ひとみたことありますのん、と言いたくなる。わたしは無いよ。だから使わない。)

 わたしはジャック・ラカン精神分析に関心があり、個人的に勉強を続けている。ラカンの議論を理解するうえでめちゃくちゃ重要なのが臨床なので、そういう理由から言っても、分析を受けたい気持ちがある。

 でもそれって、やっぱり下心だ。そんな半端な気持ちじゃダメだろう。そういうわけで、わたしは分析を受けていない。

 

 だから、というわけでは必ずしもないのだけれど、わたしは自分についてよく考える。症状未満の苦しみを抱えた自分について、何らかのことをよく考える。

 そしてその思考の方法のひとつが二次創作だ。わたしは最近、「空崎ヒナさん(によく似た別人)に劣情をぶつける話」という二次創作小説を書いた。

https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=21927372

https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=21930732

客観的な評価はともかくとして、主観的には気に入っている。

 空崎ヒナさんというのは、『ブルーアーカイブ』に登場するゲヘナ学園という高校の風紀委員長のことだ。ヒナさんはとにかくめちゃくちゃ戦闘能力が高いのに、事務はできるし性格は厳格だしで、人として非の打ち所のない、立派なひとである。

 わたしはヒナさんラブ!になったので、ヒナさんについての二次創作小説を書いた。ざっくりストーリーをまとめると、恋人になったゲーム内主人公(「先生」)とヒナさんが仲違いする、というものである。仲違いの原因としてわたし自身の経験を改変してねじ込み、それに対してヒナさんであればどういうリアクションをしてくれるかをシミュレーションしてみた。

 ヒナさんはこの小説の中で次のように言う。

「けれど、写真を撮ることは、別に嬉しくない。あなたの眼がカメラの眼にすり替わってしまうから。私はカメラじゃなくて、あなたの眼で私を見てほしい」

この部分を書いたとき、わたしはわたしの悩みの半分くらいが氷解した気がした。カメラの、あるいはスマートフォンの眼差しと、わたし自身の目の混同。ジャック・ラカンが「目と眼差しのアンチノミー」と呼んだあの現象が、自らに起こったような気がした。わたしは自分の目ではなく、カメラ越しにあのひとのことを見ていたのだ。

 「あのひと」?いや、それは私秘的なことなのでここでは触れないけれど、長年の問いが一つ解決したような気持ちがする。

 ポピュラーカルチャーは、それ自体としては精神分析ではない。けれども、自己反省をもたらす何かを、書くということを通じて、話すということを通じて、もたらしてくれる、ような気がする。いや、それ自体がひとつのナルシシズムではないか、と問う余地はある(反省なんて、ラカンが徹底的に批判した当のものだ)。というかたぶん、きっとそうなのだ。

 けれども、じゃあ、どうすればいいかな?症状未満のこの気持ちを、ただただ抱え続けることはできない気持ちを、俺は、どうすればいい?空崎ヒナさんにしか頼ることができない。こんなこと、他の誰にも言えないじゃないか?この話をしたいあのひとは、もうどこかに行ってしまった。わたしは不在を語る言葉を、ただただ求め続けている。

読んだ漫画『イブのおくすり』(著 : FLOWERCHILD)

 こちら、少し読みました。

 kindleでぱらぱら試し読みした感じ、非常に良さそうだったのでそのまま購入しようとしたら、クレカが限度額を超えていて購入できず……おのれ確定申告。というか、あれ、次の締め日まで、ほぼ丸々1か月残っているなあ。困った。

 閑話休題。というわけで、試し読みできる一話目だけ読みました。以下はその感想です。

 

 わたしにとって、この作品の一番の魅力は絵柄です。FLOWERCHILD先生の描く少女はむちっとしていて、それなのに暑苦しくなく、むしろしっとりしている。

 FLOWERCHILD先生について少し調べると、『イブのおくすり』が、もともと高校生のとき読んでいたGL漫画雑誌『メバエ』で連載されていた作品であったことに気がつきました。わたしが『メバエ』で読んだとき(たしかvol.5でした)に出ていたカップルが、試し読みの部分で登場するカップルとは違うカップルだったので、調べるまで気がついていなかったのですが、記憶を辿ると、確かに高校生の時の自分も、キャラクターの肉感に惹かれていたと思います。

 

 もちろん絵だけでなく、内容もすごく面白いです。今回わたしが読んだ第1話の主人公は、養護教諭の「由仁」と中学生の「衣舞」のカップルなのですが、なんと両者の間には、既に肉体関係があります。

 あらすじをごく簡単に述べます。由仁の勧めもあって衣舞は先日初めてブラジャーを買ったのですが、着ているところを由仁に見せようと思って、人の少ない時間に、保健室までやって来ます。由仁はセーラー服をめくって下着をみせる衣舞に対し「ねぇ/誘ってる?」と返し、保健室のベッドで衣舞を押し倒します。以下略。

 ここで面白いのは、衣舞の性愛についての感覚のアンバランスさです。一方で性行為の描写をみると、衣舞の口や乳首、さらには陰部に至るまで、由仁の舌と指は隈なく入り込んでおり、由仁にリードされながら、大人の性行為を受け入れています。その様子は全年齢向けのGL漫画における性描写としては、かなり過激な部類に入るほど、徹底しています。

 他方で衣舞は、上述のように意味も分からず初めて買った下着を由仁に見せてみたり、あるいは由仁から「今度 先生と/デートしよ」と誘われて顔を真っ赤にするなど、年齢に即した幼さを持っています。どうやら彼女にとって由仁と付き合うことは、恋愛感情に従った行為であるというよりむしろ、甘えの感情によるそれであるようです。

「大人のデートはまだ早い」という第1話のオチは、ここまでさんざんセックスしているにも関わらずデートの提案1つで顔を赤らめるという、衣舞の繊細なアンバランスの上に成立しているのです。(デートを断るに至った要素のひとつして、厳密には同い年の親友との関係性も関わっているようですが、試し読みの範囲だけだと衣舞と親友の関係はまだよく分からないので、ここでは触れません。悪しからず。)

 

 ただし以上のことを意地の悪い言い方で言えば、要するに由仁は衣舞の幼さに性的な仕方でつけ込んでいるとも言えるわけで、それがこの作品に、一筋縄ではいかない、インモラルで怪しい影を差し込んでいます。相手のことを「好き」であるとか、「大切」にするとか、そういった抽象的な観念が成熟するより先に、無知と性欲が2人を、とりわけ衣舞を、〈大人〉へと繋いでしまうのです。この混同、ないしアンビバレンス。これがこの作品の肝だと思われます。

 ここから2人の関係がどうなるのか、わたしはとても気になっています。早くカードが使えるようになりたい。あるいは現金で買ってもいいかな。

自己紹介

 はじめまして。きゃくのと言います。これまで「客野」とか「きゃくの」というハンドルネームで、主にTwitterに出没していました(「いました」と言いつつ、現在もアカウントは持っています)。

 趣味というか癖は〈おたくである自分について考えること〉です。メモを取らないので、同じ論点をぐるぐるループしています。あまりの生産性の無さに辟易して同人批評を書いたりもしたのですが、正直あまり面白く書けませんでした。

 最近関心があるものは『ブルーアーカイブ』というソーシャルゲームです。目標は韓国語で『ブルーアーカイブ』の情報を終えるくらい、韓国語を勉強すること。好きなキャラクターは空崎ヒナさんです。

 このブログでは、主に読んだ漫画や『ブルーアーカイブ』のことを、だらだらと書くつもりです。

 それではよろしくお願いします。